浄瑠璃 (じょうるり)
【概説】
室町時代末期に発生した、三味線(最初は琵琶)の伴奏に乗せて物語を語る音曲。後に操り人形と結びついて人形浄瑠璃へと発展し、江戸時代の町人文化において高度な文学性を持つ総合芸術として隆盛を極めた。
浄瑠璃の起源と名称の由来
浄瑠璃は、室町時代の中頃から末期にかけて発生した語り物芸能である。古くから日本に存在した盲僧琵琶や平曲(平家琵琶)の流れを汲むもので、初期の伴奏楽器には琵琶や扇拍子が用いられていた。その名称は、牛若丸(後の源義経)と三河国矢作の長者の娘・浄瑠璃姫との悲恋を描いた物語『浄瑠璃十二段草子(浄瑠璃物語)』に由来する。この物語が室町時代の人々の間で絶大な人気を博し、特定の節回しで語られたことから、同様の形式を持つ語り物音曲全般が「浄瑠璃」あるいは「浄瑠璃節」と呼ばれるようになった。
三味線の伝来と「古浄瑠璃」の成立
浄瑠璃の歴史において最大の転換点となったのは、16世紀後半の三味線の導入である。室町時代末期の永禄年間(1558年〜1570年)頃、琉球王国から和泉国の堺に三線(さんしん)が伝来し、日本の琵琶法師たちによって改良が加えられ三味線が誕生した。琵琶よりも軽快で表現豊かであり、かつ打楽器的な力強さも併せ持つ三味線の音色は、感情の起伏を語る浄瑠璃に極めて適していた。
三味線を伴奏とする新しいスタイルの浄瑠璃は爆発的に普及し、江戸時代初期にかけて全国各地で様々な流派が誕生した。この時期(後述する近松門左衛門と竹本義太夫の登場以前)に語られていた浄瑠璃を、日本文化史や芸能史の用語として「古浄瑠璃」と呼んで区別している。薩摩浄瑠璃や金平浄瑠璃(きんぴらじょうるり)などがその代表であり、超人的な武勇伝や豪快な荒事が好んで演じられた。
江戸時代の隆盛と近松門左衛門の登場
江戸時代に入ると、浄瑠璃は上方(大坂・京都)を中心に近世庶民文化の核として大きく花開いた。その立役者となったのが、貞享元年(1684年)に大坂で竹本座を創設した大夫・竹本義太夫と、彼に数々の名作を提供した座付き作者の近松門左衛門である。
竹本義太夫は、豪放でありながらも繊細な情を描写する新たな語り口「義太夫節」を創始した。そして近松門左衛門は、従来のような武将の物語だけでなく、当時の町人社会で実際に起きた事件(心中や世話物)を題材にした『曽根崎心中』や、歴史や伝説を壮大に描いた『国性爺合戦』などを次々と執筆した。近松の巧みな心理描写と美しい台詞回しにより、浄瑠璃は単なる娯楽から、高度な文学性を持つ演劇芸術へと昇華されたのである。この時期の浄瑠璃の隆盛は、元禄文化の象徴的な事象として歴史的に高く評価されている。
人形浄瑠璃への発展と日本文化史上の意義
浄瑠璃は次第に操り人形の芝居と結びつき、語り手である「太夫(たゆう)」、伴奏の「三味線」、そして「人形遣い」の三者が一体となって演じる人形浄瑠璃(文楽)という独自の総合芸術を完成させた。18世紀にかけては、竹田出雲ら優れた作者の登場や、三人遣いの人形操作技術の確立などにより、その表現力は劇的に向上した。
また、人形浄瑠璃は同時代に発展した歌舞伎と強い相互影響関係にあった。人形浄瑠璃のために書かれた優れた脚本が歌舞伎に移入されて演じられる(丸本物)ことも多く、両者は江戸時代の演劇史を牽引する両輪として機能した。室町時代の素朴な語り物から出発した浄瑠璃は、近世の豊かな経済力と町人社会の成熟と結びついて日本独自の舞台芸術を生み出したという点で、日本文化史において極めて重要な意義を持っている。