茶寄合 (ちゃよりあい)
【概説】
鎌倉時代末期から室町時代にかけて、武士や庶民の間で広く流行した社交的な茶の会合。お茶の銘柄を飲み当てる「闘茶」などの娯楽要素を伴い、豪華な景品を賭けるなど、きわめて派手で享楽的な性質を持っていた。
闘茶の流行と「ばさら」のエネルギー
鎌倉時代に臨済宗の開祖である栄西が宋から持ち帰った茶の文化は、当初は禅寺における修行や薬用としての利用にとどまっていた。しかし、南北朝時代へと向かう動乱期の中で、この喫茶の習慣が広く世俗化し、娯楽的な要素を強めることとなった。その象徴が「茶寄合」である。
茶寄合において最も熱狂的に行われたのが、数種類の茶を飲み比べて産地を当てる闘茶(とうちゃ)であった。特に、京都の栂尾(とがのお)産の茶を「本茶(ほんちゃ)」、それ以外の地で栽培された茶を「非茶(ひちゃ)」とし、これらを飲み分ける勝負が主流となった。勝負の勝者には、金銀、絹織物、贅沢な調度品などの豪華な景品(懸物)が与えられた。こうした風潮は、従来の秩序や権威を否定し、派手な振る舞いや贅を尽くした遊興を好む「ばさら(婆娑羅)」と呼ばれた武士たちの美意識と合致し、佐々木道誉(高氏)をはじめとするバサラ大名や新興武士の間で大流行した。
『建武式目』における規制と社会的影響
茶寄合は単なる私的な遊興にとどまらず、しばしば社会問題を引き起こす存在でもあった。賭博性が高まり、多額の財産が動くようになったほか、人々が階層を問わず群集して昼夜を問わず騒ぎ立てるため、幕府からは治安を乱す要因として警戒された。
1336(延元元/建武3)年、足利尊氏が室町幕府の施政方針として定めた『建武式目』の第1条においては、奢侈を戒める項目の中で、「茶寄合」や「連歌会」における賭博行為(勝負物)が名指しで禁止された。しかし、幕府による度重なる禁令にもかかわらず茶寄合の流行は衰えず、社会の活性化や新たな階層の知的交流の場として機能し続けた。
娯楽的喫茶から「わび茶」への変容
室町時代中期以降、茶寄合に見られた享楽的で騒がしい熱狂は次第に収束し、茶の湯のあり方は大きく変容していく。足利義政が推進した東山文化の時代になると、中国からの舶来品(唐物)を飾る書院造の部屋で行われる、格式高く芸術性の高い「書院の茶」へと洗練されていった。
さらに戦国時代にかけて、村田珠光や武野紹鴎、そして千利休らによって、唐物の豪華さや賭博性を否定し、簡素さの中に精神的な豊かさを見出す「わび茶」が確立された。一見すると対極にある「茶寄合」と「わび茶」であるが、既存の権威にとらわれない自由な創造力という点において、茶寄合は日本独自の精神文化である「茶の湯」へと昇華していくための、重要な揺籃(ようらん)期であったといえる。