幸若舞 (こうわかまい)
【概説】
室町時代中期に興り、戦国武将たちに熱狂的に愛好された語り物系統の芸能。軍記物語などの歴史物語を独特の節回しで語りながら伴奏に合わせて舞うのが特徴で、特に織田信長が好んだことで知られる。
幸若舞の成立と芸能としての特色
幸若舞は、越前国(現在の福井県)の幸若太夫(幼名を幸若丸、後の桃井直詮とされる)を始祖とする芸能である。中世に流行した「曲舞(くせまい)」と呼ばれる語り物芸能から発展したもので、扇を手にして中世の軍記物語などを独特の抑揚(節回し)をつけながら語り、鼓の伴奏に合わせて厳かに舞う。能や狂言のような激しい身体表現や華麗な仮面は用いず、烏帽子に直垂という武士の礼装に近い姿で静的に舞うのが特徴である。
その演目(幸若舞曲)は『平家物語』や『源平盛衰記』、『曽我物語』、『義経記』などの武勇伝や悲劇を題材としており、中世武士の倫理観や無常観、名誉を重んじる精神世界に深く合致するものであった。
戦国武将たちの愛好と織田信長
戦国時代、幸若舞は多くの戦国大名に愛好され、戦陣の士気を高めるため、あるいは出陣前の儀礼として重宝された。なかでも織田信長が幸若舞を極めて好んだことは有名である。信長は桶狭間の戦いの直前、幸若舞の演目である『敦盛』の一節である「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」を自ら歌い舞ってから出陣したと『信長公記』に記されている。このエピソードは、現世の無常を見据えつつ生死をかけた戦いに臨む、戦国武将の精神性を象徴するものとして語り継がれている。
信長だけでなく、豊臣秀吉や徳川家康らも幸若舞を重んじ、彼らの庇護のもとで幸若太夫の家系は幕府の「式楽(儀式用の公式芸能)」に近い扱いを受けるまでに社会的地位を高めていった。
江戸時代以降の衰退と現代への継承
江戸時代に入ると、徳川幕府によって能(能楽)が正式な式楽として採用されたため、幸若舞は次第にその陰に隠れることとなった。また、より庶民的で娯楽性の高い歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)の台頭も、幸若舞の商業的な衰退を決定づけた。近世を通じてプロの幸若太夫の家系は途絶え、公式な興行としての表舞台からは消え去ることとなる。
しかし、その台本である「幸若舞曲(幸若本)」は読み物(お伽草子など)として広く普及し、近世文学や演劇に多大な影響を与えた。また、地方の民俗芸能としては、福岡県みやま市に伝わる「大江幸若舞」が唯一の現存例として国の重要無形民俗文化財に指定されており、中世の息吹を現代に伝えている。