風流(風流踊) (ふりゅう・ふりゅうおどり)
【概説】
室町時代後期から戦国時代にかけて大流行した、華やかな衣装や仮装をして、鉦や太鼓を打ち鳴らしながら集団で熱狂的に踊る民衆芸能。疫病退散や死者供養のための念仏踊りを起源とし、次第に宗教性を離れて娯楽性の高い芸能へと発展を遂げた。中世における町衆のエネルギーの発露であるとともに、近世の歌舞伎や現代の盆踊りの源流としても極めて重要な歴史的意義を持つ。
「風流」の語義変化と初期の展開
元来、「風流」という言葉は「ふうりゅう」と読まれ、平安貴族の優雅で雅な美意識を指すものであった。しかし中世に入ると、この言葉は「ふりゅう」と読まれるようになり、趣向を凝らした華美な装いや、人目を引く奇抜な作り物(造形物)を意味するように転化した。鎌倉時代頃から、祇園会などの都市の祭礼において、華麗な装飾を施した風流傘(ふりゅうがさ)や風流山車(ふりゅうだし)が登場し、これに囃子(はやし)が加わることで、視覚的・聴覚的に人々を魅了する集団芸能の土台が形成されていった。
応仁の乱後の社会不安と大流行
風流踊が爆発的な流行を見せたのは、室町時代後期、とりわけ応仁の乱(1467年〜1477年)以降の戦国期である。相次ぐ戦乱や飢饉、疫病といった深刻な社会不安を背景に、人々は非日常的な熱狂を強く求めた。京都を中心とする都市の町衆(まちしゅう)たちは、趣向を凝らした揃いの衣装や、異形の仮装を身にまとい、大きな作り物を掲げながら、鉦や太鼓の激しいリズムに合わせて集団で踊り狂った。これは単なる娯楽にとどまらず、乱世を生き抜く民衆の巨大な生命力と連帯感の誇示でもあった。時にはその熱狂が過激化し、騒擾(そうじょう)に発展することを恐れた室町幕府が禁令を出すほどであった。
宗教的儀式から民衆娯楽への転換
風流踊の形成には、平安時代中期の空也や鎌倉時代の一遍に端を発する念仏踊りが深く関わっている。元来、念仏踊りは疫病退散や怨霊鎮魂、死者供養を目的とした呪術的・宗教的な儀式であった。しかし室町時代後期になると、宗教的な意味合いは次第に薄れ、より「見せること(魅せること)」を意識した芸能へと変質していった。特に、囃子に合わせて円陣を組んで踊る輪踊りのスタイルや、奇抜な仮装で自己を表現する要素が強まり、都市部のみならず地方の農村部へも急速に波及していった。
歌舞伎や盆踊りへの影響と歴史的意義
風流踊は、近世以降の日本文化に多大なる影響を与えた基層文化である。農村部に伝播した風流踊は、先祖供養の盂蘭盆会(おぼん)の行事と結びつき、現代にまで日本各地に伝わる盆踊りの直接的な原型となった。また、17世紀初頭(江戸時代初期)に出雲阿国(いずものおくに)が京都で創始したとされる「かぶき踊り」も、この風流踊の延長線上に位置づけられる。阿国は、当時の傾奇者(かぶきもの)の異端な風俗を取り入れつつ、風流踊の躍動的なリズムや集団パフォーマンスを舞台芸能へと昇華させ、これがのちの歌舞伎へと発展した。このように風流踊は、中世の民衆の力強いエネルギーを体現しただけでなく、日本の代表的な伝統芸能・民俗行事の源流となった点で、文化史上極めて重要な事象である。