律令

日本の古代国家の基本法典で、刑法にあたる「律」と、行政法や民法にあたる「令」の総称は何か?
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律令

7世紀後半〜1868年

【概説】
飛鳥時代から奈良時代にかけて成立した、古代日本の国家体制の基本法となった刑法(律)と行政法などの非刑罰法規(令)。中国の隋・唐の法体系を導入しつつ日本の国情に合わせて改変されたものであり、天皇を頂点とする中央集権的な支配体制の制度的基盤を形成した。

律令の概念と導入の歴史的背景

律令とは、東アジアにおいて中国王朝(特に隋や唐)を中心に発達した成文法典の体系である。「」は現代でいう刑法にあたり、犯罪とそれに対する刑罰を定めたもの、「」は行政法・民法・訴訟法などの非刑罰法規を指す。この法体系に基づく国家運営の仕組みを律令制と呼ぶ。

7世紀の東アジア情勢は、強大な唐帝国の成立や朝鮮半島における動乱など、激動の時代であった。663年の白村江の戦いで大敗を喫した日本(倭国)は、唐や新羅の脅威に対抗するため、早急に国家の防衛体制を強化し、天皇を中心とした強力な中央集権国家を建設する必要に迫られた。そのための法的な裏付けとして、当時の東アジアにおけるグローバル・スタンダードであった唐の律令法が積極的に受容されたのである。

日本における律令の編纂と成立

日本における最初の成文法典は、天智天皇の時代に制定されたとされる近江令(668年制定、実在には諸説あり)と言われている。その後、天武天皇が編纂を命じ、持統天皇の時代の689年に施行されたのが飛鳥浄御原令である。この段階では「令」のみが先行して制定されており、独自の慣習や制度を成文化する動きが強かった。

その後、701年(大宝元年)に刑部親王や藤原不比等らによって編纂された大宝律令により、初めて「律」と「令」が揃った本格的な法典が完成した。これにより、二官八省の中央官制、国・郡・里の地方行政組織、公地公民制を前提とした班田収授の法や租庸調の税制などが体系的に定められた。さらに、718年(養老2年)には同じく藤原不比等らによって養老律令が編纂され、757年(天平宝字元年)に藤原仲麻呂によって施行された。現存する日本の律令の条文は、主にこの養老律令の遺文から復元されたものである。

日本律令の独自性と中国法との違い

日本の律令は唐の法体系をモデルとしながらも、自国の伝統や実情に合わせて重要な改変が加えられている。最も象徴的なのは、行政機構の頂点に太政官と並んで神々を祀る神祇官(じんぎかん)が置かれたことである。これは、祭祀を重んじる日本の伝統的な統治観念が反映された結果である。

また、唐の律令が易姓革命(王朝交代)を前提とした君臣関係を基盤としていたのに対し、日本の律令は万世一系の天皇の権威を絶対的なものとして法制化しており、天皇に対する反逆(八虐の首位である謀反など)は最も重い罪とされた。さらに、身分制度や家族法においても、唐の家父長制的な要素はそのまま根付かず、日本の慣習的な親族構造が一部保たれるなど、実用的な運用が図られた。

中世(鎌倉時代)における律令の変質と権威

平安時代中期以降、律令制は社会経済の現実と乖離するようになり、荘園公領制の進展とともに実質的な制度としては形骸化していった。しかし、律令そのものが廃止されたわけではなく、時代ごとの法令である「格」や施行細則である「式」によって補完されながら存続した。

鎌倉時代に入り、武士が実権を握るようになっても、律令は朝廷(公家)社会における基本法たる公家法の根本として、依然として強大な権威と効力を持ち続けた。鎌倉幕府が1232年に制定した武家初の成文法である御成敗式目(貞永式目)も、武家社会の「道理」を基準としつつ、その背景には律令の法概念が色濃く影響を与えている。幕府は律令や公家法を完全に否定するのではなく、それらが及ばない武家社会の秩序を維持するための法として式目を制定したのである。このように、律令は古代国家の基盤を築いただけでなく、中世における重層的な法秩序(公家法・武家法・本所法)の中核的権威として、日本史上に長く影響を及ぼし続けた。

律令国家と古代の社会 (1983年)

律令制下の統治構造と実態を多角的に分析し、古代社会の変容を解き明かす研究の精華。

律令国家と万葉びと (全集 日本の歴史 3)

万葉集の歌々に投影された古代人の生と死、当時の生活様式を読み解く歴史読本。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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