比企能員 (ひきよしかず)
【概説】
鎌倉時代初期の有力御家人。源頼朝の乳母であった比企尼の養子として重用され、2代将軍源頼家の外戚として絶大な権勢を誇ったが、将軍の後見役をめぐって北条時政らと対立し、謀殺された人物。
比企尼の系譜と能員の台頭
比企能員(ひきよしかず)の権力の源泉は、その養母である比企尼(ひきのあま)の存在にあった。比企尼は、武蔵国比企郡を本拠とする有力者であり、源頼朝が伊豆国に流されていた約20年間にわたり、物心両面の援助を送り続けた大功労者である。頼朝が挙兵して鎌倉幕府を開くと、比企氏は幕府内で最重臣としての待遇を受けることとなった。
実子のなかった比企尼の甥として養子に入った能員は、頼朝から篤い信頼を寄せられた。能員の妻らは頼朝の嫡男・源頼家の乳母(ちのおと)に選ばれ、頼家の養育を主導した。さらに、能員の娘である若狭局(わかさのつぼね)が頼家の側室となり、長男の一幡(いちまん)を産んだ。これにより能員は、次代将軍の「乳母父」かつ「外祖父」という、幕府内で最高権力を握りうる極めて有利な立場を確立したのである。
「13人の合議制」と北条氏との覇権争い
1199(建久10)年に初代将軍・頼朝が急逝すると、18歳の頼家が2代将軍に就任した。若き将軍頼家を擁立して独裁的な権力を狙う比企能員に対し、頼朝の義父である北条時政や妻の北条政子らは強い警戒感を抱いた。この対立を背景に、頼家の独裁を抑制し、有力御家人たちの合議によって政務を執る「13人の合議制」が発足し、能員も時政・義時父子らとともにその一員に名を連ねた。
しかし、合議制の導入は権力闘争をかえって激化させることとなった。頼家は自身の側近グループ(比企一族や若い御家人たち)を重用して北条氏ら宿老に対抗しようとしたため、頼家・比企氏の連合勢力と、北条氏を中心とする反比企勢力との間の緊張は極限に達していった。
比企の乱と比企一族の滅亡
1203(建仁3)年、頼家が重病に陥ると、跡継ぎをめぐる問題が表面化した。北条氏は頼家の弟である千幡(のちの源実朝)への割譲を画策したが、これは比企一族の排斥を意味していた。危機感を募らせた能員は、頼家の病床において北条氏討伐の密謀を企てたが、これが北条政子に察知されることとなった。
先手を打った北条時政は、仏事にかこつけて能員を名越の自邸に誘い出した。能員は周囲の反対を押し切って平服・丸腰で訪れたところを、時政の命を受けた天野遠景らに刺殺された。同時に北条軍は一幡の邸宅を急襲し、比企一族を皆殺しにした(比企の乱)。重病から回復した頼家も将軍職を剥奪されて伊豆の修禅寺に幽閉され、翌年に暗殺された。
比企能員の敗北と一族の滅亡は、鎌倉幕府における将軍独裁期の終焉と、北条氏による執権政治への決定的な足がかりとなった。能員との権力闘争を制した北条氏は、ライバルとなる有力御家人を次々と排除する端緒を開き、幕府の主導権を完全に掌握していくこととなる。