藤原将軍(摂家将軍)

源氏の将軍が3代で途絶えた後、鎌倉幕府が京都の九条家などの公家の名門から迎えた将軍のことを総称して何というか?
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★★★

【参考リンク】
征夷大将軍(Wikipedia)

藤原将軍(摂家将軍) (ふじわらしょうぐん / せっけしょうぐん)

1226年 – 1252年

【概説】
源氏の正統が断絶した後、鎌倉幕府が京都の摂関家から迎えた第4代将軍・藤原頼経と第5代将軍・藤原頼嗣の2代にわたる将軍のこと。執権北条氏による政治体制が確立する中で傀儡として擁立されたが、成長とともに反北条勢力の中心となったため京都へ追放された。武家政権における将軍の権威が、源氏の血統から切り離され、後の宮将軍へと移行する重要な過渡期を形成した。

源氏将軍の断絶と後継者問題

建保7年(1219)、鎌倉幕府第3代将軍の源実朝が甥の公暁によって暗殺され、源頼朝以来の源氏将軍の血統が断絶した。実権を握る執権・北条義時と尼将軍・北条政子は、幕府の求心力を維持するため、後鳥羽上皇の皇子を新たな将軍として下向させるよう朝廷に要請した。しかし、幕府の勢力拡大を警戒し、朝廷の権力回復を企図していた後鳥羽上皇はこの要求を拒絶した。

その結果、妥協案として白羽の矢が立ったのが、頼朝の同母妹(坊門姫)の曾孫にあたる九条道家の三男・三寅(みとら、後の頼経)であった。九条家は京都の最高権威である五摂家の一つであり、源氏の血を引く公家という身分は、御家人たちを束ねる新たな権威としてふさわしいと判断されたのである。下向当時、三寅はわずか2歳の幼児であった。

承久の乱と執権政治の確立

三寅が鎌倉へ下向した直後の承久3年(1221)、後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げる承久の乱が勃発した。幕府軍はこれに圧勝し、朝廷の権威を相対的に低下させることに成功する。戦後処理を経て幕府の基盤が強固になる中、嘉禄2年(1226)に元服した三寅は藤原頼経と名乗り、正式に朝廷から征夷大将軍の宣下を受けた。これが摂家将軍(藤原将軍)の誕生である。

頼経の将軍就任は、北条泰時・経時らの執権のもとで進められた。この時期、幕府では評定衆の設置や御成敗式目の制定など、合議制に基づく執権政治が確立していく。幼少の摂家将軍は、実権を持たないお飾り(傀儡)として北条氏の体制を権威づける役割を果たすことが求められていた。

反北条勢力との結びつきと宮騒動

しかし、頼経が成長して青年期を迎えると、単なる傀儡であることを潔しとせず、次第に独自の側近層を形成し始めた。幕府内には、北条氏(特に得宗家)の権力集中に不満を抱く御家人たち(名越氏や三浦氏など)が存在しており、彼らは将軍・頼経を旗印として結集するようになった。

これを危険視した執権・北条経時は、寛元2年(1244)に頼経を強制的に退位させ、その嫡男であるわずか6歳の藤原頼嗣を第5代将軍に就任させた。しかし、頼経は「大殿」として鎌倉に留まり、依然として反北条勢力の中心として暗躍し続けた。寛元4年(1246)、第5代執権・北条時頼の就任直後に起きた宮騒動により、名越光時ら頼経側近の勢力が一掃されると、頼経はついに京都へと追放された。

摂家将軍の終焉と歴史的意義

頼経の追放後も、翌宝治元年(1247)の宝治合戦で有力御家人の三浦泰村らが滅ぼされ、北条得宗家の専制体制はさらに強化された。残された第5代将軍・頼嗣も、建長4年(1252)に謀反の計画に加担した嫌疑をかけられ、将軍職を解任されて京都へ送還された。これにより、2代約26年間にわたる摂家将軍の時代は幕を閉じた。

頼嗣の追放後、幕府は後嵯峨上皇の皇子である宗尊親王を第6代将軍として迎え入れた(宮将軍・皇族将軍)。摂家将軍の存在は、将軍の権威の源泉を「源氏の血統」から「高い家格(公家・皇族)」へと転換させる重要な橋渡しとなった。また、実権を持たない傀儡将軍という制度を定着させたことで、結果的に北条氏による執権政治・得宗専制の完成を促すという歴史的意義を有している。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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