藤原頼嗣 (ふじわらのよりつぐ)
【概説】
鎌倉幕府の第5代征夷大将軍であり、最後の摂家将軍。父である第4代将軍・藤原頼経から将軍職を譲られてわずか6歳で就任したが、北条氏による得宗専制が強化される渦中で政治的に翻弄され、最終的に将軍職を解かれて京都へ追放された。
「宮騒動」と幼主の擁立
鎌倉幕府は源氏の正嗣が途絶えた後、執権の北条氏が実権を握りつつ、傀儡としての将軍を迎える道を選んだ。初代の摂家将軍となった第4代将軍・藤原頼経(九条頼経)であったが、成長するにつれて独自の政治力を持ち始め、北条氏に不満を抱く御家人たちの象徴的存在となった。これに危機感を抱いた執権・北条経時は、寛元2年(1244年)、頼経を強制的に退位させ、その僅か6歳の子である藤原頼嗣を第5代将軍に擁立した。
しかし、将軍交代の後も前将軍である頼経は鎌倉に留まり、執権政治に介入する機会を窺っていた。寛元4年(1246年)、経時の死と北条時頼の執権就任の隙を突く形で、頼経を擁立した北条光時(名越光時)らが反乱を計画する「宮騒動」が勃発。時頼によって反乱は鎮圧され、頼経は京都へと強制送還された。幼少の頼嗣は将軍の地位に留め置かれたものの、その権力基盤は著しく脆弱なものであった。
宝治合戦と摂家将軍の孤立
頼嗣の将軍期は、執権・北条時頼による得宗(北条本家)専制体制の確立期と完全に重なっていた。宝治元年(1247年)、鎌倉幕府最大の有力御家人であった三浦泰村の一族が、時頼の手によって滅ぼされる宝治合戦が発生する。この合戦において、三浦氏は前将軍・頼経の復権を望む姿勢を見せており、実質的に将軍家(摂家)の支持基盤が完全に解体される結果となった。
幕府内での孤立を防ぐため、頼嗣は時頼の計らいによって北条重時の娘(檜皮姫)を正室に迎えるなど、北条氏との融和が図られた。しかし、檜皮姫が早世したこと、また京都の頼経が依然として反北条勢力と結びつきを強めていたことから、北条氏にとって「摂家将軍」の存在自体が不穏分子の温床とみなされるようになっていった。
建長の政変と親王将軍への移行
建長4年(1252年)、京都で足利泰氏らが関与したとされる幕府転覆の陰謀が発覚し、これに頼経が関与していた疑いが持たれた。北条時頼はこの事件を契機に、頼嗣の将軍更迭を決断する。わずか14歳の頼嗣は将軍職を剥奪され、京都へと送還された。これにより、2代26年にわたった「摂家将軍」の時代は終焉を迎えた。
頼嗣の追放後、北条氏は朝廷に対して皇族の将軍派遣を要求し、後嵯峨上皇の皇子である宗尊親王を第6代将軍として迎えた。これが「親王将軍(宮将軍)」の始まりである。親王将軍の成立によって、将軍は完全に政治的実権を奪われ、北条得宗家による専制政治(寄合衆や内管領の台頭)が完成へと向かうこととなった。京都へ戻された頼嗣は、そのわずか4年後の康元元年(1256年)、父・頼経の後を追うように18歳の若さで病死した。