宇治川の戦い

承久の乱において、大軍で京都へ迫る北条泰時らの幕府軍に対し、朝廷軍が橋を落として激しく抵抗した川の戦いは何か?
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重要度
★★

宇治川の戦い (うじがわのたたかい)

1221年

【概説】
承久の乱(1221年)において、京都へ進撃する鎌倉幕府軍と、それを阻止せんとする後鳥羽上皇方の朝廷軍が激突した決戦。京都防衛の最終防衛線である宇治川を舞台に展開され、幕府軍の勝利によって乱の趨勢を決定づけた歴史的分水嶺となった戦闘である。

承久の乱の勃発と宇治川の地理的・戦略的重要性

鎌倉幕府の3代将軍・源実朝の暗殺後、幕府の動揺を見た後鳥羽上皇は、執権・北条義時の追討を命じる院宣を発給し、政権奪還を企図した。これが承久の乱の発端である。しかし、尼将軍・北条政子の演説に発奮した東国御家人たちは結束し、幕府軍は東海道、東山道、北陸道の3ルートから大軍を擁して一気に上洛を開始した。

美濃・尾張の防衛線を突破された朝廷軍は、山城国と近江国の国境に位置する要衝、宇治・瀬田のラインを最終防衛線に設定した。なかでも宇治川は、宇治橋を要する交通の要地でありながら、川幅が広く流れが急な天然の堀として、京都を南東から防御する最大の障壁であった。朝廷軍は宇治橋の橋板を外し、川岸に矢倉や逆茂木を設置して、弓矢による激しい抵抗で幕府軍を迎え撃つ態勢を整えた。

幕府軍の敵前渡河と激戦の推移

1221年(承久3年)6月13日、幕府軍の主力である東海道軍を率いる北条泰時(のちの3代執権)らが宇治川の東岸に到着した。折からの梅雨による大雨で宇治川は増水し、激流と化していたため、幕府軍は渡河を躊躇した。しかし、泰時は「ここで退けば東国の恥である」と将兵を叱咤し、決死の渡河作戦を命じた。

翌14日、佐々木信綱や芝田兼義をはじめとする幕府方の驍将たちが、馬筏(集団で馬を並べて激流を防ぐ戦術)を組むなどして次々と激流に飛び込んだ。朝廷軍は上流から筏や大木を流してこれを妨害し、無数の矢を浴びせたため、幕府軍には多くの溺死者や戦死者が出た。しかし、圧倒的な兵力差と士気の違いから、幕府軍の一角が対岸への突破に成功する。この渡河成功によって朝廷軍の防衛線は一気に瓦解し、総崩れとなって京都へと敗走した。

宇治川決戦がもたらした歴史的帰結と影響

宇治川の防衛線が突破されたことで、後鳥羽上皇方の敗北は決定定的となった。幕府軍は翌15日には京都へ乱入し、朝廷軍の指揮官であった藤原秀康や三浦胤義らは敗死、あるいは捕縛された。後鳥羽上皇は武装を解除し、北条泰時に対して院宣を撤回して降伏を申し入れた。

この戦いの結果、承久の乱は幕府の完全な勝利に終わり、日本史における公武の勢力関係は劇的に変化した。戦後、後鳥羽・土御門・順徳の3上皇は配流処分(後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐のち阿波)となり、仲恭天皇は廃位された。幕府は朝廷を厳重に監視・統制するため、京都に六波羅探題を設置した。宇治川の戦いは、単なる局地戦にとどまらず、朝廷に対する武家政権(鎌倉幕府)の圧倒的な優位性を決定づけた、中世社会の画期となる戦闘であったと言える。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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