大都(北京) (だいと)
【概説】
モンゴル帝国(元)の第5代皇帝フビライ=ハンが建設した、元朝の壮大な首都。現在の中国の首都・北京の前身であり、東アジアにおける政治・経済・文化の圧倒的な中心地として、日本の鎌倉社会にも多大な影響を及ぼした国際都市。
フビライの中国支配と新都「大都」の誕生
モンゴル帝国の第5代カアン(皇帝)に即位したフビライ=ハンは、それまでのモンゴル高原の首都カラコルムから、農耕世界(中国本土)の支配に適した地への遷都を画策した。これにより、金の旧都であった中都(現在の北京)の北東隣に、全く新しい計画都市の建設が開始された。1267年に宮殿の建設が始まり、1272年に「大都」と命名されて正式な首都となった。
この遷都は、モンゴル帝国が国号を「元」と改め、遊牧国家から中国的な中央集権帝国へと変貌を遂げる象徴的な出来事であった。大都は、壮麗な宮殿群を中心に、整然とした碁盤目状の道路網、大運河と直結する港湾、そして周囲約28キロメートルに及ぶ巨大な城壁を備えた、当時世界最大規模のメトロポリスとして設計された。
世界帝国の中心地としての繁栄と国際性
大都は単なる政治の中心地にとどまらず、ユーラシア規模の交易網が交差する経済・文化の巨大な結節点であった。元代に整備された「ジャムチ(駅伝制)」や大運河の修復により、中国江南地方の豊かな物資や、西方からの高価な交易品が大都へと集積した。
この大都市の繁栄ぶりは、ヴェネツィア出身の旅行家マルコ・ポーロの『東方見聞録』において、ハンの宮廷がある都市「カンバラック(汗八里)」としてヨーロッパに紹介され、世界に強い衝撃を与えた。キリスト教(ネストリウス派やカトリック)、イスラーム、仏教、道教など多様な宗教や文化が共存し、諸外国の使節や商人が行き交う極めて国際色豊かな都市であった。
鎌倉幕府との交渉と「元寇」の意思決定地
日本史において大都は、日本を揺るがした未曾有の国難「元寇(蒙古襲来)」の意思決定が行われた最重要拠点として深く関わっている。フビライは大都の宮殿から、日本に対して通交(事実上の服属)を求める国書を幾度も起草し、使節を派遣した。鎌倉幕府(執権・北条時宗)がこれらを黙殺・処刑すると、大都において日本遠征計画が策定され、文永の役(1274年)および弘安の役(1281年)の出兵命令が下された。
元寇の終息後も、日元間では私貿易船(唐船)による交際が継続した。大都をはじめとする元朝の先進的な物資や、禅僧の往来を通じてもたらされた最先端の学問・仏教文化(元僧の無学祖元などの来日)は、鎌倉幕府の武家文化(五山文化)の発展に計り知れない影響を与え続けることとなった。