三別抄 (さんべつしょう)
【概説】
モンゴル帝国(元)の侵略とそれに対する高麗王室の降伏方針に反発し、徹底抗戦を展開した高麗の軍事組織。武臣政権の私兵・精鋭部隊を起源とし、政権崩壊後も独自の政権を組織して抵抗を続けた。日本の鎌倉幕府へ対蒙共同闘争を呼びかける国書を送るなど、元寇前夜の東アジア情勢に大きな影響を与えた存在である。
武臣政権の私兵から抗蒙の主力へ
三別抄はもともと、13世紀前半の高麗において実権を握っていた武臣政権(崔氏政権)の私兵組織であった。夜間の治安維持を担う「夜別抄」から発展し、規模の拡大に伴って「左別抄」と「右別抄」に分裂、さらにモンゴル軍の捕虜から逃げ帰ってきた者たちで組織された「神義抄」が加わることで、これらを総称して「三別抄」と呼ばれるようになった。
モンゴルによる度重なる侵略に対し、武臣政権は首都を開京(現在の開城)から江華島へと移し、徹底抗戦を主張した。この江華島時代において、三別抄は政権の護衛や反乱の鎮圧のみならず、対モンゴル戦の最精鋭部隊として国の防衛を担う主軸となっていった。
「三別抄の乱」の勃発と抵抗の推移
1270年、長年にわたるモンゴルの圧力に抗しきれなくなった高麗王室(元宗)は、武臣政権を打倒してモンゴルへの完全な臣従を決定し、首都を開京に戻す「還都」を宣言した。しかし、モンゴルに降伏すれば組織の解体や報復が避けられない三別抄はこれを拒絶。裴仲孫(はいちゅうそん)らに率いられて反乱を起こした(三別抄の乱)。
彼らは独自の王族を擁立してもう一つの「高麗政府」を組織し、拠点であった江華島から南方の珍島(ちんとう)へと拠点を移した。豊かな物資と優れた水軍力を背景に、三別抄は朝鮮半島南部や周辺の海上交通路を支配し、元・高麗連合軍を翻弄した。1271年に珍島が陥落すると、生き残った勢力はさらに南の済州島(さいしゅうとう)へ逃れ、強固な城塞を築いて抵抗を継続した。
日本への通好要請と元寇への歴史的意義
三別抄の抗戦は、日本史の展開、とりわけ元寇(蒙古襲来)の動向とも深く結びついている。1271年、珍島に拠っていた三別抄は、日本の鎌倉幕府に対して高麗政府を自称する国書を送付した。その内容は、自らがモンゴルと戦う正統な高麗政権であることを主張し、日本に対して共同戦線を張るよう求めるものであった。時の執権・北条時宗をはじめとする幕府側は、すでに元からの国書を受け取っていたこともあり、この使者の真意を測りかねて返書を送ることはなかったが、中世の日本が朝鮮半島の激しい動乱を直接察知する契機となった。
1273年、元・高麗の連合軍による大規模な総攻撃を受け、済州島の拠点が陥落したことで三別抄は全滅し、その抵抗は終焉を迎えた。しかし、彼らが約3年間にわたって強力に抵抗し続けたことは、フビライ・ハンによる日本遠征の計画を大きく遅らせる結果となった。三別抄の滅亡によってようやく朝鮮半島を完全に掌握した元は、翌1274年、高麗を兵站基地として第1回日本遠征(文永の役)を決行することとなる。