てつはう

文永の役において元軍が使用し、すさまじい爆発音で日本の武士や馬をパニックに陥れた火薬兵器(手投げ弾)を何というか?
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★★★

てつはう

13世紀後半

【概説】
文永の役(1274年)や弘安の役(1281年)などの元寇において、元・高麗軍が使用した手榴弾状の火器。大きな爆発音と閃光を伴って破裂し、日本の武士や馬を激しく驚愕させ、甚大な衝撃を与えた。

てつはうの構造と威力の正体

てつはう(鉄砲)は、陶製や鉄製の容器の内部に黒色火薬と鉄片、陶片などを詰め、導火線に点火して投石機(砲)などで投擲、あるいは手投げする兵器である。当時の中国(金や南宋)では「震天雷(しんてんらい)」などと呼ばれていた。

爆発による破片で敵を殺傷する物理的な破壊力もさることながら、実戦において最大の脅威となったのはその音響・閃光効果であった。当時の火薬は不純物が多く、現代の高性能爆薬のような強烈な爆発力こそなかったものの、炸裂に伴う轟音と白煙、閃光は、火器という概念を知らなかった日本の武士たちを恐慌状態に陥れるのに十分であった。特に、騎射を主力とする武士の乗る馬が爆音に怯えて制御不能となったことは、日本側の戦術を大きく狂わせる要因となった。

モンゴル帝国の拡大と火器技術の伝播

てつはうが日本にもたらされた背景には、13世紀のモンゴル帝国のユーラシア大陸席巻がある。もともと火薬技術は中国で発明されたものであったが、モンゴル帝国は金や南宋を征服する過程でこの最先端の軍事技術を吸収し、自軍の兵器体系へと組み込んでいった。

モンゴル軍は攻城戦や野戦において、技術者集団を動員して投石機や火器を大規模に運用した。この軍事革命の波は西はイスラーム世界やヨーロッパへ、東は極東の日本へと波及した。したがって、てつはうは単なる日本史上のエピソードにとどまらず、モンゴル帝国を媒介としたユーラシア規模での兵器技術の伝播を示す世界史的にも重要な証拠であると言える。

日本武士団への衝撃と戦術的影響

鎌倉時代の日本の武士たちは、名乗りを上げてからの「一騎討ち」を理想とし、独自の弓馬の道を重んじていた。そこに襲来した元軍は、銅鑼や太鼓の合図によって統制された密集陣形による集団戦法を展開し、短弓による毒矢、そしてこのてつはうを多用した。

日本の武士団は、未知の兵器であるてつはうの爆発音に度肝を抜かれ、馬が暴走して落馬する者が続出するなど、緒戦において極めて苦しい戦いを強いられた。八幡愚童訓などの史料には、てつはうの轟音に武士たちが為す術もなく混乱した様子が記されており、この経験は日本側にも集団戦術への転換や防御施設の構築(石塁など)を促す契機となった。

『蒙古襲来絵詞』の描写と近年の考古学的発見

長らく、てつはうの姿を視覚的に伝える唯一の史料となっていたのが、肥後国の御家人・竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』である。この絵巻物には、元軍と戦う季長の頭上でてつはうが炸裂し、炎と煙を噴き出している生々しい様子が描かれている。

かつては、この絵巻物の描写は後世の加筆ではないかと疑う説も存在した。しかし、2001年に長崎県松浦市の鷹島神崎遺跡(弘安の役における元軍船の沈没地)における海底発掘調査によって、内部に火薬や鉄片が詰まった状態のてつはうの陶器製の実物が完全な形で引き揚げられた。この画期的な考古学的発見により、『蒙古襲来絵詞』の描写の正確性が証明されるとともに、元軍が実際に高度な火薬兵器を日本への遠征に大量投入していたことが科学的かつ物質的に裏付けられたのである。

蒙古襲来と神風 – 中世の対外戦争の真実 (中公新書 2461)

通説の「神風」という枠組みを排し、考古学と史料の精査によって中世日本が直面した対外戦争の全貌を解明する画期的な研究書。

蒙古襲来研究史論 (1977年) (中世史選書〈1〉)

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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