臨済宗 (りんざいしゅう)
【概説】
鎌倉時代初期に栄西が南宋から日本へ伝えた、中国禅宗五家の一つ。
師が与える公案(禅問答)に取り組みながら座禅を組み、自力で悟りを開くことを目指す仏教の宗派である。
時の武家政権の強力な庇護を受けて大きく発展し、日本の中世における文化や思想に多大な影響を与えた。
栄西による伝来と初期の展開
鎌倉時代初期の1191年(建久2年)、南宋へ留学した栄西(えいさい/ようさい)が帰国し、持ち帰った教えが日本における臨済宗の始まりである。しかし、伝来当初の京都では、比叡山延暦寺をはじめとする旧仏教勢力から激しい反発と弾圧を受けた。これに対し、栄西は『興禅護国論』を著して「禅の教えこそが国家を鎮護する有益なものである」と主張し、既存の天台宗や真言宗の教えを取り入れる「兼修禅」の立場をとることで調和を図った。
その後、京都での布教に限界を感じた栄西は関東へ下り、新興勢力であった鎌倉幕府の有力者である北条政子や2代将軍・源頼家の庇護を受けることに成功した。幕府の援助により鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺を建立し、臨済宗は日本に根を下ろす第一歩を踏み出したのである。
「看話禅」の教義と実践
臨済宗の最大の特徴は、師匠が弟子に対して与える公案(こうあん)を用いた修行法にある。公案とは、日常的な論理や理屈を超越した課題や禅問答のことである。弟子は座禅を組みながらこの公案に精神を集中させ、己の力で直観的な悟り(見性)を開くことを目指す。
このような実践方法は「看話禅(かんなぜん)」と呼ばれ、ただひたすら壁に向かって座禅を組むこと(只管打坐)を説いた道元(曹洞宗)の「黙照禅(もくしょうぜん)」としばしば対比される。師と弟子が1対1で向き合い、厳しい精神的対決を通じて悟りに至るという、極めて自力本願的かつ実践的な教風を持っていた。
武家政権との結びつきと五山の制
臨済宗の持つ自律的で実践を重んじる気風は、常に死と直面する武士の精神生活と深く適合した。鎌倉時代中期には、時の執権・北条時頼や北条時宗らが南宋から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう・建長寺開山)や無学祖元(むがくそげん・円覚寺開山)などの高僧(渡来僧)を相次いで招き、栄西の兼修禅から進んだ、中国式の純粋な禅(純粋禅)が関東に根付いた。
室町時代に入ると、足利尊氏をはじめとする歴代足利将軍家に重用された夢窓疎石(むそうそせき)らの活躍により、幕府の公的な保護のもとで五山・十刹の制(ござんじっさつのせい)が整えられた。京都五山や鎌倉五山を中心とする寺院ネットワークは、単なる宗教機関にとどまらず、外交文書の作成や日明貿易の推進など、政治的・外交的にも幕府の運営を支える中核となっていった。
日本文化(禅宗文化)への決定的な影響
臨済宗は、日本の中世文化、いわゆる禅宗文化の形成において決定的な役割を果たした。五山の僧侶たちを中心に発達した漢詩文の創作活動(五山文学)や、宋や元から伝えられた水墨画は、日本の文学・美術に新たな境地を開拓した。
また、栄西が『喫茶養生記』を著して茶の効用を説いたことで広まった喫茶の風習は、後に武家や公家の間で流行し、やがて茶道へと昇華された。さらに、夢窓疎石らが作庭を手がけた枯山水庭園や、精進料理、書院造の建築様式など、今日私たちが「日本的」と見なす精神的・美的な文化要素の多くは、臨済宗の思想を根底に孕んで発展したものである。