康弁 (こうべん)
【概説】
鎌倉時代初期に活躍した慶派の仏師。天才仏師・運慶の三男であり、興福寺に伝わる名品「竜灯鬼像」の制作者として知られる。運慶譲りの高度な写実技術を受け継ぎながら、怪異な中にもどこか愛嬌のあるユーモラスな表現を確立した名工である。
慶派の系譜と運慶の息子たち
鎌倉時代、仏教彫刻界において圧倒的な主流派となったのが慶派(けいは)である。その中興の祖である運慶には多くの息子がおり、長男の湛慶を筆頭に、康運、康弁、康勝らが仏師として一門を支えた。康弁の具体的な生没年は明らかになっていないが、13世紀前半の鎌倉初期に活動した記録が残されている。
当時、平氏による南都焼討(1180年)によって壊滅的な被害を受けた東大寺や興福寺の復興事業が急速に進められていた。運慶率いる慶派はこの大事業を主導することで、従来の平安貴族好みの穏やかな作風(院派・円派)を凌駕し、武士の時代にふさわしい力強く写実的な「鎌倉彫刻」のスタイルを確立していった。康弁もこの復興事業に加わり、父や兄弟たちとともに多くの造仏に携わった。
傑作「竜灯鬼像」にみる写実性とユーモア
康弁の卓越した技量と独自の芸術性を最もよく示しているのが、奈良・興福寺に伝わる国宝「天灯鬼・竜灯鬼(てんとうき・りゅうとうき)像」のうちの竜灯鬼像(1215年作)である。相方の天灯鬼像(作者不詳)と対をなすこの像の胎内からは、「法橋康弁」の署名がある銘札が発見されており、彼の確実な遺作として美術史上で極めて高く評価されている。
本来、邪鬼は四天王などの仏法守護神に足蹴にされる脇役に過ぎなかったが、康弁はこの邪鬼を独立した主役に据えるという画期的な試みを行った。竜灯鬼像は、体に竜を巻き付け、頭上に乗せた重い灯籠を支えるために腹を突き出して踏ん張るポーズをとっている。その筋肉の躍動感や浮き出た血管のリアルな描写は運慶譲りの写実主義そのものである。しかし同時に、どこか親しみやすさを感じさせるユーモラスな表情やポージングからは、康弁独自の人間味あふれる造形センスを読み取ることができる。
南都復興と康弁の歴史的評価
1215年(建保3年)、興福寺北円堂の復興造仏における功績が認められ、康弁は僧侶の職位(僧綱)の一つである「法橋(ほっきょう)」の位を授けられた。これは彼が一人前の仏師として社会的に公認されたことを意味する。
長男の湛慶が運慶の正統かつ古典的な美しさを継承したのに対し、三男の康弁はより個性的でダイナミックな表現世界を開拓した。彼の遺した表現は、仏像が単なる信仰の対象にとどまらず、人間の豊かな感情や生命力を表現する芸術作品へと昇華していく過程を鮮明に示している。