西行
【概説】
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した僧侶であり、日本を代表する大歌人。元は鳥羽上皇に仕える北面武士であったが若くして出家し、諸国を行脚しながら自然や旅の哀愁を深く詠み込んだ数多くの優れた和歌を残した。
北面武士からの出家と漂泊の旅
西行の俗名は佐藤義清(さとうのりきよ)といい、紀伊国の裕福な武士の家系に生まれた。若くして武芸や和歌に秀で、徳大寺家に仕えたのち、鳥羽上皇を警護する北面武士として登用された。同僚には同年代の平清盛などがおり、将来を嘱望されるエリート武士であった。
しかし保延6年(1140年)、23歳という若さで突如として妻子を捨て、出家して僧となった。出家の理由については、親友の急死による無常観、身分違いの失恋、あるいは政治的抗争への絶望など諸説あるが定かではない。出家後は円位、のちに西行と名乗り、鞍馬や高野山などに草庵を結ぶ傍ら、陸奥国(平泉)や四国(讃岐国)など、生涯にわたって諸国を行脚する漂泊の旅に出た。
動乱の時代と和歌への昇華
西行が生きた時代は、保元の乱・平治の乱から源平の争乱へと至る、貴族社会から武家社会への激しい転換期であった。彼自身は隠遁者として世俗から距離を置いていたが、かつて仕えた崇徳上皇が保元の乱に敗れて讃岐に流され怨霊となった際には、その白峯陵を訪ねて鎮魂の歌を詠むなど、時代の悲劇と無縁ではいられなかった。
西行の和歌は、こうした戦乱や政争がもたらす世の無常観を背景に持ちながらも、桜や月といった自然の美しさに深く沈潜し、自己の内面や旅の哀愁を率直に表現している点に特徴がある。その私家集である『山家集』には、彼の研ぎ澄まされた美意識と深い精神性が刻まれている。
源頼朝との会見と奥州行脚
文治2年(1186年)、およそ70歳となった西行は、東大寺大仏殿の再建に必要な砂金を募る勧進のため、再び奥州平泉の藤原秀衡のもとへと旅立った。その道中、鎌倉において幕府を開きつつあった源頼朝と面会している。この時の様子は幕府の公式記録『吾妻鏡』にも記されており、頼朝は西行を厚くもてなし、弓馬の道や和歌の教えを乞うたという。別れ際に頼朝から銀の猫を与えられた西行が、それを門外で遊んでいた見知らぬ子供に無造作に与えて立ち去ったというエピソードは、彼の無欲な隠遁者としての態度をよく表している。
「花の下」での入寂と後世への影響
建久元年(1190年)、西行は河内国の弘川寺で73年の生涯を閉じた。かつて彼は「願はくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」という歌を詠んでいたが、その言葉通り、釈迦の入滅と同じ旧暦2月16日、桜の花が咲く季節に入寂した。この劇的な最期は当時の人々に深い感動を与え、「生きた仏」として西行の伝説化を決定づけた。
彼の和歌は、のちに後鳥羽上皇の命で編纂された『新古今和歌集』において、全歌人の中で最多となる94首が採録され、藤原定家ら新古今歌人に多大な影響を与えた。また、世俗を捨てて自然と一体化する「漂泊の旅人」としての生き方は、室町時代の宗祇や江戸時代の松尾芭蕉など、後世の多くの文人たちに強く慕われ、日本文化における隠遁文学の系譜を形作る原点となった。