藤原実資 (ふじわらのさねすけ)
【概説】
平安時代中期の公卿で、小野宮流藤原氏の当主。有職故実(ゆうそくこじつ)に精通し、時の権力者・藤原道長に対しておもねることなく筋を通した態度を貫いた「賢人右府」。彼が遺した日記『小右記』は、摂関政治全盛期の実態を克明に伝える超一級の歴史史料として極めて高い価値を持つ。
小野宮流の継承と「賢人右府」としての名声
藤原実資は、参議・藤原斉敏の三男として生まれたが、祖父である太政大臣・藤原実頼の養子となり、小野宮流(おののみやりゅう)の嫡流を継承した。小野宮流は、道長に代表される九条流と並ぶ藤原氏の有力家系であり、朝廷の儀礼や先例に関する知識である有職故実を家学としていた。実資はこの伝統を深く学び、朝廷内随一の博識として「賢人右府(賢い右大臣)」と称賛された。政治的な実務能力にも長け、実務を軽視しがちな当時の貴族社会において、筋の通った法家的な態度で朝政をリードした。
権力者・藤原道長への毅然たる態度と「望月の歌」
実資が活躍した時期は、藤原道長・頼通父子が摂関政治の全盛期を築いた時代と重なる。多くの貴族が道長の権勢に阿(おも)ねるなか、実資は筋を通した独自の立場を守り続けた。道長も実資の有職故実の知識と公明正大な態度を無視することはできず、敬意を払いつつも一目置く存在であったとされる。その関係性を象徴するのが、寛仁2年(1018年)に道長が詠んだとされる有名な「この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」の歌(望月の歌)である。この歌を詠み上げた道長から返歌を求められた実資は、「あまりにも名歌であるため返歌はできない」として、代わりに居並ぶ公卿たちにこの歌を何度も唱和することを提案し、その場を収めた。道長におもねることなく、かつその面目を潰さない実資の老練な政治的センスが垣間見えるエピソードである。
一級史料『小右記』とその歴史的意義
実資が50年以上にわたって書き残した漢文日記『小右記』(しょううき/小野宮右大臣の日記の意)は、平安中期を知る上での一級史料である。この日記には、宮廷の儀式や政治の動向、社会世相、そして道長の詳細な動静などが客観的かつ克明に記録されている。前述の「望月の歌」も、道長自身の日記『御堂関白記』には記載がなく、この『小右記』に記録されていたために現代まで伝わったものである。当時の貴族社会の表舞台だけでなく、裏側の駆け引きや、実資自身の冷徹な人間観察眼が反映されており、摂関期の政治・社会制度を解明する上で欠かせない基礎史料となっている。