藤原隆家 (ふじわらのたかいえ)
979年〜1044年
【概説】
平安時代中期の貴族で、関白・藤原道隆の四男。叔父の藤原道長との政争に敗れて没落するも、のちに赴任した大宰府において外敵の侵入である「刀伊の入寇」に遭遇し、現地の武士団を率いてこれを撃退した武勇の誉れ高い公卿。
「長徳の変」と中関白家の没落
藤原隆家は、一条天皇の皇后・定子の同母弟であり、若くして権中納言に昇進するなど将来を嘱望されていた。しかし、父である藤原道隆の没後、中関白家(道隆の家系)は叔父の藤原道長との政権闘争に突入する。長徳2年(996年)、隆家の従者が花山法皇を威嚇射撃する不敬事件(長徳の変)を起こしたことで、隆家は出雲権守へと左遷され、兄の伊周とともに失脚した。これにより政権は完全に道長の手へと渡り、中関白家は没落の一途をたどることとなった。
刀伊の入寇と武士の組織化
その後、許されて帰京した隆家は、眼病の治療を目的として自ら大宰権帥(だざいのごんのそち)への就任を志願し、九州大宰府へと赴任した。寛仁3年(1019年)、大陸の女真族(高麗・日本側からは「刀伊」と呼ばれた)が突如として九州北部を襲撃する刀伊の入寇が発生する。隆家は京都の朝廷からの指示を待つ猶予がないと判断し、現地の在地領主や武士(大蔵種材ら)を迅速に動員・指揮してこれを撃退した。この出来事は、貴族でありながら武人を統率した隆家の評価を高めるとともに、九州における武士団の形成と台頭を促す重要な契機となった。