安倍頼時 (あべのよりとき)
?〜1057年
【概説】
平安時代中期の陸奥国奥六郡を支配した俘囚の長。朝廷への貢租を怠ったことから国司と対立し、前九年合戦(前九年の役)の端緒を開いた。源頼義率いる朝廷軍と激しく戦ったが、戦途中で没した。
奥六郡における支配力と国司との対立
安倍頼時は、現在の岩手県北上川流域にあたる奥六郡(胆沢・江刺・和賀・紫波・稗貫・岩手)を本拠とした俘囚(ふしゅう)の長である。俘囚とは、朝廷の支配下に入った東北地方の蝦夷系住民を指すが、安倍氏はその中でも強力な武装組織と経済力を擁し、半独立的な勢力を築いていた。しかし、次第に陸奥国府への貢租や役の提供を怠るようになり、朝廷の支配権と衝突することとなる。1051年(永承6年)、陸奥守・藤原登任が安倍氏の討伐を図るも大敗した鬼切部の戦いにより、のちに「前九年合戦」と呼ばれる奥州の長期動乱が勃発した。
源頼義との融和と「阿久利川事件」による破滅
動乱の勃発後、朝廷は名門武家である河内源氏の源頼義を陸奥守として派遣した。このとき、頼時は自らの名「頼良(よりよし)」が頼義の名と同音であることを避けて「頼時」と改名し、恭順の意を示して一度は和睦を結んだ。しかし1056年(天喜4年)、頼義の任期が終了する間際に、源氏側の陣営が襲撃される阿久利川事件が発生する。頼義がこれを頼時の長男である貞任の犯行と断定したため、頼時は一族を守るために再び蜂起せざるを得なくなった。衣川の関に拠って頑強に抵抗した頼時であったが、1057年(天喜5年)、一族の調略工作に遭い、戦闘中に負った傷がもとで戦死した。彼の死後、抗戦は息子の貞任や娘婿の藤原経清に引き継がれ、後の奥州藤原氏誕生の伏線となっていく。