平重盛 (たいらのしげもり)
1138年〜1179年
【概説】
平安時代末期の平氏一門の武将・公卿。平清盛の嫡男であり、文武に優れた次期棟梁として期待されながらも、父と後白河法皇との武力衝突を防ぐために苦心し、政権の崩壊前に病死した人物。
平氏の若き後継者と「小松殿」としての台頭
平重盛は、平清盛の長男として生まれた。若年期から軍事面で頭角を現し、保元の乱(1156年)や平治の乱(1159年)において父とともに参戦して目覚ましい武功を挙げた。平氏政権の成立期には、一門の有力な後継者として朝廷での官位も急速に上昇し、最終的には武士として異例の内大臣にまで登り詰める。その邸宅が京都の小松谷にあったことから、人々に「小松殿(こまつどの)」と称され、人望の厚い人物として知られていた。
清盛と後白河法皇の板挟みと、その急逝が与えた影響
重盛の最大の功績および歴史的役割は、専横を強める父・清盛と、院政を維持しようとする後白河法皇(院)との間に立ち、両者の激しい対立を融和させる調停役を担い続けた点にある。1177年の鹿ケ谷の陰謀の際など、清盛が法皇を武力で幽閉しようとするたびに、重盛は温厚な態度と忠義の念をもって父を諌め、最悪の衝突を回避させた。軍記物語である『平家物語』では、国家への「忠」と父への「孝」の板挟みに苦しむ悲劇の名将として描かれている。しかし1179年、心労が重なる中で父に先立ち42歳で病死した。平氏と朝廷の最大の仲介者であった重盛の死は、両者の均衡を完全に崩し、直後の清盛による治承三年の政変(後白河法皇の幽閉)と、それに続く平氏滅亡への引き金となった。