藤原宮子 (ふじわらのみやこ)
【概説】
奈良時代の女性で、藤原不比等の長女であり文武天皇の夫人。聖武天皇(首皇子)の生母。非皇族出身の女性として初めて天皇の配偶者となり、のちの藤原氏による外戚政治の先駆をなした重要人物である。
藤原氏における「外戚」路線の確立と端緒
藤原宮子は、大宝律令の編纂などで知られる権力者・藤原不比等の娘として生まれた。文武天皇元年(697年)、文武天皇の即位とほぼ同時に、宮子は天皇の配偶者である「夫人(ぶにん)」として後宮に入った。律令の規定において、正妃である「皇后」は皇族出身者に限られていたため、臣下である藤原氏出身の宮子は一階級下の「夫人」にとどまったが、これは人臣の娘が天皇の正式な配偶者となった初のケースであった。
宮子は文武天皇との間に首皇子(のちの聖武天皇)を出産した。不比等は自らの血を引く首皇子を皇位に就けることで、天皇家との強固な血縁関係(外戚関係)を築き、藤原氏の権力基盤を決定的なものにしようとした。この宮子の入内と首皇子の誕生こそが、平安時代に全盛期を迎える「摂関政治(外戚政策)」の歴史的な出発点となったのである。
「皇太夫人」の称号をめぐる政治闘争(辛巳の変)
首皇子が成長し、即位を目前に控えた養老7年(723年)、宮子にどのような尊称を贈るかをめぐって朝廷内で政治的な対立が発生した。これはいわゆる「辛巳の変(宮子称号事件)」と呼ばれる。
聖武天皇の即位に伴い、生母である宮子に対して「皇太夫人(こうたいぶにん)」の称号を授け、口頭での呼称を「大夫人(おおみおや)」とする勅が出された。しかし、これに対して右大臣・長屋王をはじめとする公卿層が、大宝律令の規定(皇太夫人の呼称は「大御祖」ではなく「大夫人」であるべき)に反すると異議を唱えた。この問題は、天皇の側近(藤原氏)が天皇の権威を背景に律令を修正しようとしたのに対し、長屋王らが律令の原則を遵守しようとして抵抗した政治闘争であった。最終的には聖武天皇側が妥協して長屋王側の主張が通ったが、この対立はのちに藤原四子(宮子の異母弟たち)が長屋王を自殺に追い込む「長屋王の変(729年)」の伏線となった。
三十数年に及ぶ「幽憂の疾」と僧・玄昉による平癒
宮子は首皇子を出産した直後から、深刻な精神の病(史料上では「幽憂の疾」と表現される)を患い、長年にわたって心を閉ざした。そのため、我が子である聖武天皇が即位してからも、二人が直接対面することは叶わなかった。宮子は長きにわたり、宮中の奥深くで世間から隔絶された生活を送っていたとされる。
この状況が劇的に変化したのが、天平9年(737年)のことである。唐から帰国して頭角を現していた法相宗の僧・玄昉(げんぼう)が宮子の看病(加持祈祷)にあたったところ、宮子の病は奇跡的に平癒した。これにより、宮子は約36年ぶりに息子である聖武天皇との再会を果たしたのである。この劇的な母子対面は聖武天皇を深く感動させ、玄昉は天皇から絶大な信頼を得るようになった。これが契機となり、玄昉は橘諸兄政権下で国政を左右するほどの強い政治力を持つに至り、後の藤原広嗣の乱などを誘発する一因ともなった。宮子の病気平癒は、単なる私的な美談にとどまらず、奈良時代中期の政局を大きく揺り動かす契機となったのである。