陸奥国府 (むつのこくふ)
【概説】
古代の地方行政区分である陸奥国に置かれた、行政および軍事の中心組織。現在の宮城県多賀城市に位置する多賀城がその実体を担い、律令国家による東北地方の統治と蝦夷支配の最前線として機能した。
多賀城の創建と国府の設置
奈良時代の神亀元(724)年、鎮守将軍兼按察使(あぜち)であった大野東人(おおののあずまひと)によって、陸奥国府および多賀城が創建された。それ以前の陸奥国府は郡山遺跡(現在の仙台市太白区)付近に置かれていたと考えられているが、律令国家の支配領域を北方へと拡大するプロセスにおいて、より北方の要衝である多賀の地へと移転された。多賀城は、周囲を外郭線と呼ばれる城壁や土塁で囲まれた大規模な「城柵(じょうさく)」であり、その中央部には国司が政務や儀式を行う「国庁」が配置され、陸奥国の政治・行政の中心地となった。
軍事と行政の二重拠点としての役割
陸奥国府は、畿内や西国などの一般的な国府とは異なり、極めて高度な軍事機能を兼ね備えていた。これは、当時の律令国家の支配に服さなかった東北地方の先住民である蝦夷(えみし)に対する、征服・融和政策の最前線に位置していたためである。多賀城内には、行政機関である陸奥国衙だけでなく、軍事・防衛を司る鎮守府(ちんじゅふ)も同居していた。このように行政官としての国司と、軍事指揮官としての鎮守府将軍(およびその軍事組織)が一体となって機能することで、辺境の安定と内国化(律令制の浸透)が推し進められたのである。
蝦夷の反乱と国府の変遷
多賀城を拠点とする陸奥国府は、平穏な統治ばかりではなく、激しい抵抗にも晒された。宝亀11(780)年に発生した伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)の乱の際には、反乱軍によって多賀城が一時的に占領され、焼失するという壊滅的な被害を受けた。その後、朝廷は坂上田村麻呂を派遣して蝦夷平定を本格化させ、軍事拠点である鎮守府はさらに北方の胆沢城(岩手県奥州市)へと移転された。しかし、行政拠点としての陸奥国府は多賀城に留まり続け、貞観11(869)年の貞観地震による津波被害などを経て再建されながら、11世紀に奥州藤原氏が平泉に独自の政権を築くまでの間、東北地方における律令支配のシンボルであり続けた。