多賀城
【概説】
724(神亀元)年に現在の宮城県多賀城市に築かれた、古代東北地方における律令国家の政治的・軍事的拠点。陸奥国府および鎮守府が置かれ、朝廷による蝦夷(えみし)支配と領域拡大の最前線として重要な役割を果たした。
律令国家の東北経営と多賀城の創建
8世紀初頭、律令制を確立した大和朝廷は、支配領域の拡大を目指して東北地方への進出を本格化させた。いわゆる蝦夷の平定と教化を推し進めるため、724(神亀元)年に按察使兼鎮守将軍であった大野東人(おおののあずまびと)によって築かれたのが多賀城である。
周囲を約900メートル四方の築地塀や材木塀で囲まれた広大な敷地を持ち、内部の中央には儀式や政務を行う政庁が置かれた。さらにその周囲には、実務を担う官衙(役所)や兵士の駐屯施設などが計画的に配置されており、古代東北地方において平城京などの都城を模して造られた巨大な地方都市であった。
陸奥国府と鎮守府の併設
多賀城の最大の特質は、行政機関である陸奥国府と、対蝦夷の軍事指揮機関である鎮守府が併設されていた点にある。朝廷は多賀城を起点として、さらに北方へと城柵(じょうさく)を築き、駅馬や伝馬を整備して交通網を張り巡らせた。
また、関東や北陸地方から「柵戸(きのへ)」と呼ばれる農民を移住させて開拓を進めるなど、多賀城は単なる軍事基地にとどまらず、律令国家による東北開発と支配領域拡大の中心地として機能したのである。
蝦夷の反乱と多賀城の変容
しかし、朝廷の強引な同化政策と領域拡大は、在地勢力である蝦夷の激しい抵抗を引き起こした。780(宝亀11)年に起きた伊治呰麻呂の乱(宝亀の乱)では、蝦夷の軍勢によって多賀城は焼き討ちに遭い、一時的に陥落するという事態に陥った。
その後、桓武天皇の時代に大規模な蝦夷征討が行われ、802(延暦21)年に征夷大将軍の坂上田村麻呂がさらに北方の岩手県に胆沢城(いさわじょう)を築き、鎮守府をそちらへ移転させた。これにより、多賀城は最前線の軍事拠点としての役割を終えたが、その後も陸奥国の行政の中心としての重要性は維持された。
歴史的意義と終焉
11世紀に入り、律令制が弛緩し地方政治のあり方が変化すると、多賀城も次第に衰退していった。やがて奥州藤原氏が平泉を拠点として台頭すると、東北地方の政治的中心は完全に移行し、多賀城はその役割を終えた。
現在、多賀城跡は平城宮跡(奈良県)、大宰府跡(福岡県)と並ぶ日本三大史跡の一つとして特別史跡に指定されている。また、敷地内に残る「多賀城碑」(壺碑)は、多賀城までの距離や創建の経緯を伝える貴重な金石文であり、古代国家がどのように辺境を領域に組み込んでいったかを物語る第一級の歴史的遺産である。