隼人の乱 (はやとのらん)
【概説】
720年(養老4年)に、九州南部の隼人が大隅国守を殺害して朝廷に対して起こした大規模な反乱。律令国家が南九州を自国の領土として実質的に支配していく過程で発生した、隼人による最後の組織的抵抗である。
反乱の背景と律令支配への抵抗
奈良時代初期、拡大する律令国家(大和朝廷)にとって、東北地方の蝦夷(えみし)と南九州の隼人(はやと)を服属させることは、辺境支配を確立する上での最重要課題であった。朝廷は702年に薩摩国、713年には大隅国を相次いで設置し、これら南九州の地に班田収授法をはじめとする律令制的な支配を浸透させようと試みた。
しかし、独自の文化や社会構造、信仰を維持していた隼人の人々にとって、土地や戸籍を国家に管理され、重い課税(調や庸など)を課されることは受け入れがたいものであった。この急激な「和風化(律令化)」への拒絶反応が限界に達し、720(養老4)年2月、隼人らは大隅国守の陽侯麻呂(やこのまろ)を殺害し、一斉に蜂起した。
朝廷の武力鎮圧と大伴旅人
事態を重く見た平城京の朝廷は、中納言であった大伴旅人(おおとものたびと)を征隼人持節大将軍に任命し、大軍を動員して南九州へ派遣した。大伴旅人はのちに大宰帥として筑前に赴任し、万葉歌人として名を馳せる人物であるが、この時は軍事官僚として反乱鎮圧の陣頭指揮を執ることとなった。
反乱側は険しい地形を利用して複数の城(砦)に立てこもり、毒矢などを用いて激しく抵抗した。戦いは1年半近くに及ぶ泥沼の局面に突入したが、大伴旅人率いる朝廷軍は圧倒的な物量と戦術を用いてこれらを次々に攻略した。721年中頃に反乱は完全に鎮圧され、隼人側の死傷者および捕虜は1400人以上に達したとされる。これにより、南九州における隼人の組織的な軍事抵抗力は事実上壊滅した。
乱がもたらした歴史的影響と文化的変容
隼人の乱の平定は、古代日本において複数の歴史的変化をもたらした。第一に、南九州における律令支配の確立である。乱の後、大隅国や薩摩国での班田収授が本格的に進められ、対唐・対新羅の安全保障上重要であった南島路(種子島や屋久島を経由する航路)の安全が確保された。
第二に、服属した隼人たちの宮廷化である。捕らえられた隼人たちは平城京へ連行され、宮中の門衛(衛門府などでの警備)や、呪術的な吠声(犬の鳴き真似による魔除け)、独自の歌舞である「隼人舞」を披露する役務に就かされた。これにより彼らは、天皇の支配権が辺境にまで及んでいることを視覚的に示す存在へと変容させられた。
第三に、宗教史的な側面である。乱の鎮圧に際し、朝廷軍を神威によって援護したとされる豊前国の宇佐神宮(八幡神)では、殺生を犯した罪を悔い、犠牲となった隼人の霊を慰めるために、生き物を自然に放つ仏教儀礼「放生会(ほうじょうえ)」が創始されたと伝えられている。これは、日本の神道と仏教が融合していく神仏習合の歴史における極めて重要な契機となった。