長屋王

藤原不比等の死後に皇親政治を主導し、三世一身法などを制定したが、藤原四兄弟の陰謀によって自害に追い込まれた左大臣は誰か?
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長屋王

684頃〜729

【概説】
天武天皇の孫で、元正天皇から聖武天皇の初期にかけて右大臣・左大臣として政権を主導した奈良時代の皇族。藤原不比等の死後に国政のトップに立ち、律令国家の社会問題に対する政策を展開したが、台頭する藤原四兄弟との政争に敗れて自害に追い込まれた。

皇親政治の担い手としての台頭

長屋王は、天武天皇の長男である高市皇子(たけちのおうじ)を父に持つ皇室の重鎮である。正妻の吉備内親王は草壁皇子の娘(元正天皇の妹)であり、その血筋の尊貴さから朝廷内で強い影響力を持っていた。720年(養老4年)に当時の政権トップであった藤原不比等が没すると、翌年に長屋王は右大臣に就任し、さらに724年(神亀元年)には左大臣へと昇進して国政の主導権を握った。天皇の親族が要職を占めて政治を行う、いわゆる皇親政治の代表的指導者であった。

律令体制の変質と社会経済政策

長屋王が政権を担当した時代は、平城京遷都から間もなく、人口の増加に伴う口分田の不足や、過酷な税負担から逃れるための農民の浮浪・逃亡といった社会問題が表面化し始めた時期であった。律令制の根幹である班田収授法の維持が困難になるなか、長屋王政権は現実的な対応を迫られた。

これに対し、722年に百万町歩の開墾計画(ひゃくまんちょうぶのかいこんけいかく)を打ち出し、良民に食料を与えて大規模な新規農地開拓を奨励した。しかし、これは現実離れした目標であったため、翌723年には新たに三世一身法(さんぜいっしんのほう)を制定した。これは、新たに灌漑施設を設けて開墾した者には三世代(本人・子・孫)にわたって、既存の施設を利用して開墾した者には本人の一生に限り、その土地の私有を認めるという画期的な法令であった。国家による土地の公地公民制の一部を崩してでも、農地拡大と税収確保を優先せざるを得なかった当時の時代背景を如実に物語っている。

尊号事件と藤原氏との対立

長屋王の政権運営は、天皇の権威と律令の原則を重んじるものであったが、これが次第に勢力を拡大していた藤原不比等の息子たち(藤原四兄弟:武智麻呂、房前、宇合、麻呂)との軋轢を生んだ。対立が決定的に表面化したのが、724年の聖武天皇即位に伴う尊号事件である。聖武天皇が、非皇族である生母の藤原宮子(不比等の娘)に「大夫人(だيبにん)」という称号を与えようとした際、長屋王は「公式令の規定に反する」としてこれを撤回させた。律令の法と秩序を厳格に守ろうとする長屋王の姿勢は、外戚として権力を固めたい藤原氏にとって大きな障害となった。

長屋王の変と悲劇的な最期

727年、聖武天皇と光明子(不比等の娘・四兄弟の妹)の間に待望の皇子(基王)が誕生すると、生後わずか1ヶ月で皇太子に立てられたが、翌年夭折してしまう。これを機に、藤原四兄弟は皇族以外から初となる光明子の立后(皇后にすること)を画策したが、これにも皇親勢力の筆頭である長屋王が強く反対したと推測されている。

729年(神亀6年)、「長屋王が密かに左道を学び、国家を傾けようとしている(謀反を企てている)」という密告がなされた。これを口実に藤原宇合らが率いる軍兵が長屋王の邸宅を包囲し、糾問を受けた長屋王は、妻の吉備内親王や子供たちと共に自害に追い込まれた。これを長屋王の変と呼ぶ。この事件により皇親勢力は大きく後退し、直後に光明子の立后が実現して、藤原四兄弟の政権(藤原四子政権)が確立することになる。

長屋王家木簡が明かす貴族の栄華

長屋王の生活の実態は、1988年(昭和63年)に現在の奈良市に位置する平城京左京三条二坊で建設工事に伴う発掘調査が行われた際、約6万点にも及ぶ大量の木簡(長屋王家木簡)が出土したことで明らかになった。約6万平方メートルもの広大な敷地に、多数の家司(けいし)や手工業者を抱えた巨大な「家政機関」が存在していたことが判明している。

木簡には、全国各地から氷や鮑(あわび)などの海産物、高級な特産品が納められていた記録が残されており、皇族の筆頭として権勢を振るった長屋王の豪奢な生活と、当時の平城京を中心とする流通経済の様子を現代に伝える極めて重要な歴史的史料となっている。

長屋王の変とは何か 律令が生んだ悲劇

政争の渦中で滅ぼされた皇親政治の頂点、その実像と変の背景を律令制度の矛盾から解き明かす画期的な歴史書。

長屋王家木簡と奈良朝政治史 (古代史研究選書)

出土した数千枚の木簡を丹念に読み解き、奈良時代の統治機構や社会の営みを鮮やかに描き出す専門的論考の集大成。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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