恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)

764年、道鏡を寵愛する孝謙上皇と対立した藤原仲麻呂が挙兵したが、逆に討伐されて敗死した事件を何というか?
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★★★

恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱) (えみのおしかつのらん(ふじわらのなかまろのらん)

764年

【概説】
764年(天平宝字8年)、時の最高権力者であった藤原仲麻呂(恵美押勝)が、僧の道鏡を重用する孝謙上皇に対して起こしたが敗れた反乱。上皇側の迅速な軍事対応により鎮圧され、仲麻呂の敗死と淳仁天皇の廃位という結果をもたらした。

藤原仲麻呂の台頭と権力集中

奈良時代中期、藤原不比等の孫にあたる藤原仲麻呂(藤原武智麻呂の子・南家)は、叔母である光明皇太后の絶大な信任を背景に台頭した。757年の橘奈良麻呂の乱で政敵を粛清して権力基盤を固めると、自らの意のままになる大炊王を皇太子に立て、翌年に淳仁天皇として即位させた。

仲麻呂は天皇から「恵美押勝(えみのおしかつ)」という破格の姓名を賜り、唐風の官名改称を断行。太保(右大臣)、さらには人臣初となる太師(太政大臣)へと昇り詰め、独自の軍事力や経済基盤を与えられるなど、その権勢は頂点に達した。

孝謙上皇と道鏡の接近による対立

しかし、760年に最大の後ろ盾であった光明皇太后が崩御すると、押勝の政治的地位に陰りが見え始める。さらに、病に伏せた孝謙上皇(淳仁の前の天皇)の看病にあたった看病禅師の道鏡が上皇の深い寵愛を受けるようになると、朝廷内の力学は一変した。

押勝と淳仁天皇は道鏡の排除を試みて上皇を諫めたが、これが逆に上皇の激怒を買い、762年に上皇は「天皇は小事を行い、国家の大事と賞罰は自らが執る」と宣言して出家してしまった。これにより朝廷は、孝謙上皇・道鏡派淳仁天皇・恵美押勝派に二分される深刻な政治対立へと突入した。

乱の勃発と吉備真備の采配

権力奪還に危機感を募らせた押勝は、764年(天平宝字8年)9月、軍事力を動員してクーデターを計画した。しかし、密告により計画は上皇側に露見し、上皇は迅速に行動を起こした。上皇側は軍事動員に不可欠な駅鈴(えきれい)や天皇の印である内印(ないいん)をいち早く押さえることに成功し、押勝の官位を剥奪して彼を「謀反人」と断じた。

追い詰められた押勝は、一族や私兵を引き連れて自らの地盤である近江国、さらには越前国へと逃れ、再起を図ろうとした。しかし、かつて押勝によって左遷され、唐から帰国して上皇側に復帰していた軍略家・吉備真備の的確な用兵により退路を断たれる。最終的に押勝の軍勢は近江国の三尾崎(現在の滋賀県高島市)で官軍に敗れ、押勝は妻子とともに斬首された。

道鏡政権の成立と藤原氏の勢力変化

この乱の鎮圧は、奈良時代の政治史に極めて大きな転換をもたらした。押勝が擁立した淳仁天皇は廃位されて淡路国へ配流(淡路廃帝)となり、孝謙上皇が重祚(再び即位)して称徳天皇となった。

勝利した上皇(天皇)側のもとで、道鏡は太政大臣禅師、さらには法王へと異例の昇進を遂げ、天皇と仏教的権威が一体化した特異な政権(道鏡政権)が誕生した。また、藤原氏内部の勢力図も大きく塗り替えられ、押勝を輩出した南家が没落する一方で、乱で上皇側に味方した藤原百川ら式家や、後に台頭する北家が台頭する重要な契機となった。

彷徨の王権 聖武天皇 (角川選書 305)

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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