称徳天皇
【概説】
孝謙上皇が、764年(天平宝字8年)の恵美押勝の乱の後に淳仁天皇を廃して再び即位した(重祚した)際の天皇名。道鏡を重用して徹底した仏教政治を展開し専制的な権力を振るったが、後継者を残さずに崩御したことで天武系皇統の断絶を招いた。
孝謙上皇の復権と重祚
称徳天皇は、聖武天皇と光明皇后の娘として生まれ、史上唯一の女性皇太子を経て即位した孝謙天皇の重祚(一度退位した天皇が再び即位すること)後の呼称である。孝謙天皇は758年に淳仁天皇へ譲位して上皇となったが、次第に時の権力者であった藤原仲麻呂(恵美押勝)と対立を深めた。病に伏した際に看病にあたった僧の道鏡を深く寵愛した上皇は、出家して仏門に入るとともに、政治的実権の奪還を図った。764年、危機感を抱いた仲麻呂が反乱を起こす(恵美押勝の乱)と、上皇側はこれを迅速に鎮圧。仲麻呂の傀儡であった淳仁天皇を廃して淡路国へ配流し、自ら再び皇位に就いた。これが称徳天皇である。
道鏡の重用と強力な仏教政治
重祚を果たした称徳天皇は、自らを「仏弟子の天皇」と位置づけ、鎮護国家思想に基づく徹底した仏教政治を推進した。寵僧の道鏡には太政大臣禅師、さらには法王という仏教界と政界の最高位を与え、絶大な権力を委ねた。天皇と道鏡は共同統治のような体制を敷き、西大寺の建立や、恵美押勝の乱の戦死者を供養するための百万塔陀羅尼の制作など、国家財政を注ぎ込んで大規模な仏教政策を展開した。近年の研究では、称徳天皇の治世は単なる「僧侶への盲信」ではなく、藤原氏などの有力貴族を排除し、仏教の権威を背景にして天皇の絶対的な専制君主権を確立しようとした高度な政治的意図があったと評価されている。
宇佐八幡宮神託事件と皇統の危機
称徳天皇は生涯独身であり、後継となるべき皇子がいなかった。こうした状況下で769年、大宰府の主神である中臣習宜阿蘇麻呂が「道鏡を皇位に就かせれば天下は太平になる」という宇佐八幡宮の神託をもたらした。これが宇佐八幡宮神託事件である。天皇は側近の和気清麻呂を勅使として宇佐へ派遣し、真偽を確かめさせた。清麻呂は「我が国は開闢以来、君臣の分が定まっており、臣下を君主にすることはできない」という正反対の神託を持ち帰り、道鏡の即位を断固として阻止した。激怒した称徳天皇は清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅国へ流罪としたが、道鏡の皇位簒奪はここに頓挫することとなった。
崩御と天武系皇統の断絶
神託事件の翌年である770年、称徳天皇は病に倒れ、53歳で崩御した。天皇の死後、後ろ盾を失った道鏡は直ちに下野国(現在の栃木県)の薬師寺へ左遷された。称徳天皇が後継者を指名せずに亡くなったため、藤原百川ら群臣の協議により、天智天皇の孫にあたる白壁王が擁立され、光仁天皇として即位した。これにより、天武天皇から約1世紀にわたって続いてきた天武系の皇統は完全に断絶し、皇位は再び天智系へと移行した。称徳天皇の波乱に満ちた治世は、奈良時代の政治的・宗教的矛盾が頂点に達した時期であり、その後の平安時代における「僧侶の政治不介入」や「女性天皇の忌避」といった暗黙の原則が形成される決定的な契機となった点で、日本史上極めて重要な意味を持っている。