法王 (ほうおう)
【概説】
奈良時代後半、称徳天皇が寵愛した僧の道鏡に授けた、仏教界および世俗政治における最高権力者を示す称号。天皇に準ずる極めて強大な権限を有し、過度に傾斜した仏教政治の象徴となった地位である。
道鏡の台頭と法王就任の背景
奈良時代中期の政界は、藤原仲麻呂(恵美押勝)の台頭と没落、それに伴う皇位継承をめぐる抗争など、激しい動揺の中にあった。天武天皇の血統である孝謙上皇(のちの称徳天皇)は、病の際に看病を通じて信頼を寄せた弓削氏出身の僧・道鏡を急速に重用するようになる。
764年、これに反発した藤原仲麻呂が乱(恵美押勝の乱)を起こして敗死すると、孝謙上皇は重祚して称徳天皇となった。天皇は熱烈な仏教信仰のもとで仏教政治を強力に推進し、765年に道鏡を太政大臣禅師に任命、さらに翌766年には、仏教界と政治の双方を統べる最高権威として「法王」の称号を授与した。
法王の権限と独占された権力
法王となった道鏡の権限は、実質的に天皇と同等、あるいはそれに準ずる准太上天皇の扱いを受けるものであった。その政務を補佐するために「法王宮職」という臨時の官司が設置され、従来の太政官組織とは別個に国家の中枢権力を握った。
また、法王の乗り物や衣服、儀礼などは天皇に準じた格式が用いられ、道鏡の一族である弓削氏が次々と高官に抜擢された。これは、天武天皇以来の「鎮護国家」思想、すなわち仏教の力で国家の安寧をはかる政策の究極的な形態であったが、同時に貴族社会の秩序を根本から揺るがす異常な事態でもあった。
過度な仏教政治の終焉と歴史的影響
法王という地位による権力の極大化は、ついに皇位そのものを脅かす事態へと発展した。769年、大宰府の主神であった中臣習宜阿曾麻呂らが「道鏡を皇位に就ければ天下は太平になる」という宇佐八幡宮の託宣を伝えた、いわゆる宇佐神宮託宣事件(和気清麻呂の派遣により阻止)が勃発する。
しかし、770年に後ろ盾であった称徳天皇が崩御すると、道鏡はたちまち失脚して下野国の薬師寺へ左遷され、法王の称号も一代限りで消滅した。この一連の混乱は、政治と宗教のあり方に強い反省を促し、後の光仁天皇による皇統の移動(天武系から天智系へ)や、桓武天皇による平安京遷都(南都仏教勢力の影響力排除)へとつながる大きな歴史の転換点となった。