興福寺
【概説】
平城京の外京(現在の奈良市)に位置する藤原氏の氏寺。710年(和銅3年)の平城京遷都に伴い、藤原不比等が飛鳥の厩坂寺を移建して創建した。一族の隆盛とともに繁栄を極め、南都七大寺の一つとして古代から中世を通じて日本の宗教的・政治的な中心地の一つとして君臨した。
藤原氏の発展と伽藍の整備
興福寺の起源は、飛鳥時代の669年に中臣鎌足の病気平癒を祈願して正室の鏡王女が山背国に建立した山階寺(やましなでら)に遡る。壬申の乱後に飛鳥へ移されて厩坂寺(うまやさかでら)と称された後、710年(和銅3年)の平城京遷都に際して、鎌足の子である藤原不比等が平城京の東端にあたる外京に移建し、現在の「興福寺」と改称された。
奈良時代を通じて藤原氏が朝廷で権力基盤を固めていく過程で、氏寺である興福寺も天皇や皇后からの厚い庇護を受けた。不比等の娘である光明皇后は五重塔などを建立し、その他の一族も次々と諸堂塔を寄進したことで、壮大な伽藍が完成した。また、仏教教学の面でも法相宗の大本山として南都六宗の学問的中心となり、東大寺などとともに南都七大寺の一つに数えられ、古代仏教界において揺るぎない地位を確立した。
天平文化と慶派仏師の至宝
興福寺は、日本美術史においても極めて重要な役割を果たしている。奈良時代には、光明皇后の母・橘三千代の菩提を弔うために造立された八部衆像(阿修羅像など)や十大弟子像といった、天平文化を代表する傑作(脱活乾漆造)が数多く生み出された。
その後、1180年(治承4年)の平重衡による南都焼討で伽藍の大部分を焼失する悲劇に見舞われたが、この復興事業が新たな文化の原動力となった。鎌倉時代初期の復興造仏においては、運慶や快慶に代表される慶派の仏師たちが起用され、東大寺南大門の金剛力士像と並ぶ力強く写実的な鎌倉彫刻の数々が興福寺にもたらされた。現在国宝に指定されている仏像の多くは、この時代のものである。
中世における「南都北嶺」の覇権
平安時代以降、国家の律令体制が変質し荘園公領制が展開するなかで、興福寺は巨大な荘園領主へと変貌を遂げた。藤原氏の氏神である春日社(春日大社)と一体化する神仏習合(春日権現)を進め、春日社の神威を背景にして強大な権力を振るった。
興福寺の大衆(僧侶)は武装して僧兵(奈良法師)となり、神木(春日神木)を掲げて朝廷に要求を突きつける強訴を度々行った。比叡山延暦寺(山法師)とともに「南都北嶺」と恐れられ、大和国(現在の奈良県)には国司が事実上存在せず、「大和国は興福寺の知行国」と呼ばれるほどの一国支配体制を築き上げた。
この強大な中世的権力は戦国時代まで維持されたが、織田信長や豊臣秀吉による寺社勢力削減政策(太閤検地など)によって所領を大幅に没収され、政治的影響力を失った。さらに明治時代初頭の廃仏毀釈では甚大な打撃を受け、多くの堂塔や塀が破壊されたが、その後再建・修復が進められ、現在は古都奈良の歴史的象徴として世界遺産に登録されている。