下野薬師寺 (しもつけやくしじ)
【概説】
東国(現在の栃木県下野市)に置かれ、地方の僧尼に戒律を授けるための「戒壇」が設けられた官寺。奈良の東大寺、筑紫の観世音寺と並び「天下三戒壇」の一つに数えられ、東日本における仏教普及の中心的役割を果たした。
鑑真の来朝と「天下三戒壇」の確立
奈良時代中期、唐から来朝した高僧・鑑真によって日本に正式な戒律がもたらされた。それまで日本の仏教界では、正式な手続きを経ずに自称する「私度僧」が横行しており、国家による僧尼の統制(僧尼令の維持)が大きな課題となっていた。国家が公認する正式な僧侶(官僧)となるためには、一定の資格を持つ「伝戒師」から戒律を授かる「授戒」の儀式が必要であり、その儀式を行う神聖な場所が戒壇である。
754年、鑑真は平城京の東大寺に日本初の戒壇を築いた。しかし、広大な日本国内において、僧侶を目指す者がすべて平城京まで赴くのは困難であった。そこで天平宝字5(761)年、朝廷は受戒の機会を地方に広げるため、東国と西国にそれぞれ戒壇を新設することを決定した。こうして西の筑紫国(福岡県)の観世音寺とともに、東の下野国(栃木県)の下野薬師寺に戒壇が設けられ、これらは東大寺と合わせて「天下三戒壇」と称された。これにより、東国の僧侶は遠く都まで赴くことなく、下野薬師寺で受戒することで国家公認の僧侶となることが可能となった。
東国支配の拠点と歴史の変遷
下野薬師寺が東国の戒壇に選ばれた背景には、当時の律令国家による東国支配、およびさらに北方の東北地方への影響力拡大の意図があった。毛野氏などの有力豪族が盤踞する東国において、中央集権体制の浸透と仏教を通じた精神的教化を図るため、同寺は国家的な宗教インフラとして極めて重要な位置に据えられたのである。
同寺の重要性を示すエピソードとして、神護景雲4(770)年の道鏡の左遷が挙げられる。称徳天皇の寵愛を受け、一時は法王として権勢を誇った道鏡だが、天皇の崩御に伴って失脚し、造下野薬師寺別当に任じられてこの地に配流された。これは、都を追われたとはいえ、依然として下野薬師寺が国家的に重要な地位を占める官寺であったことを示している。平安時代以降も東国を代表する大寺院として存続したが、中世の戦乱や室町・戦国時代の兵火によって衰退した。現在、寺院跡は国の史跡に指定され、古代の地方仏教と律令支配の結びつきを今に伝えている。