防人歌 (さきもりのうた)
【概説】
『万葉集』に収められた、九州の沿岸防備にあたる「防人」として徴発された兵士や、故郷に残された家族によって詠まれた和歌群。重い兵役負担を強いられた東国農民の悲哀や肉親への思慕が赤裸々に表現されており、古代民衆のリアルな心情や生活状況を伝える貴重な文学・歴史史料である。
律令国家の国防と過酷な兵役負担
「防人(さきもり)」とは、663年の白村江の戦いにおける大敗を契機として、唐や新羅の侵攻に備えるため九州沿岸や壱岐・対馬に配置された国境警備隊である。当初は諸国から広く徴発されていたが、730年(天平2年)以降は主に東国(現在の関東地方など)の農民から徴発されるようになった。任期は3年であったが、東国から九州への過酷な旅程にかかる食糧や旅費は原則として自弁であり、農民にとってその負担は絶望的なまでに重かった。
防人に選ばれることは、生きて再び故郷の土を踏めるか分からない過酷な運命を意味していた。働き盛りの男性を奪われることは、残された家族にとっても農業生産に関わる死活問題であり、当時の民衆にとって防人の制度は非常な恐怖と悲哀の的であった。防人歌は、このような律令制下における重圧と搾取という歴史的背景から生み出されたのである。
大伴家持と『万葉集』第20巻
防人歌は『万葉集』の第13巻や第14巻(東歌)にも見られるが、最もまとまった形で収録されているのは最後の巻である第20巻である。天平勝宝7歳(755年)、難波に集結した東国からの交替防人たちが詠んだ歌を、軍事を司る兵部少輔(ひょうぶのしょう)の任にあった大伴家持が収集し、記録にとどめた。
家持は、防人を引率してきた諸国の国司が提出した歌の束から、優れた歌を選び出して『万葉集』に編纂した。また、家持自身も彼らの過酷な境遇に深く心を寄せ、防人の心情に代わって詠んだ代作や、彼らの苦難を思いやる長歌を残している。名もなき東国農民の肉声がこれほどまでにまとまって現代に伝わっているのは、家持の個人的な文学的関心と、民衆の悲哀に対する深い共感があったからこそと言える。
素朴な表現と史料的・文学的意義
防人歌の最大の特徴は、都の貴族が詠む洗練された技巧的な和歌とは異なり、飾り気のない素朴で直情的な表現が用いられている点にある。「唐衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして(すがりついて泣く子どもを置いてきてしまった、母親もいないのに)」といった歌に見られるように、老いた父母への心配や、妻や子との別れを惜しむ肉親への痛切な情愛が赤裸々に詠まれている。
また、これらの歌の多くには上代東国方言(東国語)がそのまま用いられており、古代日本語の地域差を知るための第一級の言語史料としても重宝されている。一方で、大君(天皇)の「御楯(みたて)」として命を捧げる決意を勇ましく詠んだ歌も含まれているが、これらには国司による指導や思想的な改変が加わっている可能性も指摘されている。防人歌は、律令国家による苛酷な民衆支配の実態を証明する歴史史料であると同時に、古代東国の人々の豊かな人間性を今に伝える不朽の文学的遺産として高く評価されている。