大伴家持 (おおとものやかもち)
【概説】
奈良時代後期の貴族・歌人であり、現存する日本最古の和歌集『万葉集』の最終的な編纂に深く関わったとされる人物。古来より続く武門の名族・大伴氏の当主として度重なる政争に翻弄されながらも優れた和歌を数多く残し、日本文学史に多大な足跡をしるした。
名門大伴氏の当主としての政治的苦難
大伴家持は、大納言・大伴旅人(おおとものたびと)の子として生まれた。大伴氏は古代より天皇に仕え、軍事・警察を担ってきた名門の氏族であったが、奈良時代に入ると藤原氏の台頭によって次第に政治的な影響力を失いつつあった。家持は若くして父を亡くし、一族の期待を背負って政界に出たものの、その生涯は奈良時代後期の激しい権力闘争と常に隣り合わせであった。
天平18年(746年)には越中守(現在の富山県)として地方官に赴任し、5年間にわたり同地で政務にあたった。帰京後は、聖武上皇の死後に勃発した橘奈良麻呂の変(757年)や、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱、764年)などの政争において、直接的な関与は避けつつも常に連座の危機に晒され、薩摩守などの地方官への左遷と中央への復帰を繰り返した。晩年には中納言にまで昇進し、陸奥按察使持節征東将軍として東北地方の経営にもあたったが、延暦4年(785年)に赴任先で没した。しかし、死後直後に起きた藤原種継暗殺事件の首謀者の一人とみなされ、官籍を剥奪されるという悲運に見舞われた(後に恩赦で名誉回復)。
『万葉集』の最終編纂者
家持を歴史上最も特徴づけているのは、『万葉集』の編纂に対する多大な貢献である。『万葉集』全20巻に収録された約4500首のうち、家持自身の和歌は約1割にあたる473首(長歌・短歌等の総計)に及び、これは収録歌人の中で圧倒的な第一位である。特に彼が越中守として赴任していた時期の日記的な歌群や、大伴氏の栄光を讃える長歌などは、文学的価値が高いだけでなく、当時の地方社会や貴族の精神生活を知る上での第一級の史料となっている。
また、『万葉集』の最後の歌は、天平宝字3年(759年)正月に家持が因幡国(現在の鳥取県)で詠んだ「新しき年の初めの初春の 今日降る雪のいや重け吉事」である。これ以降の年代の歌が収録されていないこと、また後半の巻に家持の私的な歌集(家持歌日誌)がそのまま組み込まれているような構成になっていることから、家持が私家集や諸資料をまとめ上げ、『万葉集』を最終的な形に編纂した中心人物であると確実視されている。
家持の和歌の特質と歴史的意義
家持の和歌は、初期の瑞々しい抒情歌から、政争に巻き込まれた中期の苦悩の歌、そして名門氏族の没落に対する悲哀や孤独感を詠んだ晩年の歌へと、その生涯の変転を色濃く反映している。特に、大伴氏の武門としての誇りを高らかに詠い上げた「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ」を含む長歌(『万葉集』巻18)は、天皇への絶対的な忠誠と一族の悲壮な決意を示したものとして有名である。
また、彼の歌風には、繊細で内省的な美意識が見られる。自然の風景に自らの沈んだ心情を投影するような表現は、それまでの『万葉集』に見られたおおらかで力強い「ますらをぶり」から一歩踏み出し、後の平安時代における『古今和歌集』などの優美な「たをやめぶり」へと繋がる過渡期的な性質を持っている。大伴家持は、没落していく名門貴族の哀歓を歌に昇華させることで、日本文学の表現領域を大きく広げた点において極めて重要な存在である。