国記 (こっき)
【概説】
飛鳥時代の推古天皇期に、聖徳太子と蘇我馬子によって編纂されたと伝わる日本最古級の歴史書。大王家(天皇家)や諸豪族の系譜・伝承などを整理した国家的な史料であったが、のちの「乙巳の変」の際に大半が焼失し、現在は現存しない幻の史書である。
推古朝の政治改革と『国記』編纂の背景
『日本書紀』によると、推古天皇28年(620年)、皇太子(聖徳太子)と大臣の蘇我馬子が相議して、皇室の系譜である『天皇記(すめらみことのふみ)』や、国家の歴史を記した『国記』、さらには臣・連・伴造・国造・百八十部や公民らの系譜・由来を記した史書を編纂したとされる。
この時期は、遣隋使の派遣や冠位十二階・憲法十七条の制定に代表されるように、大和政権が東アジアの国際緊張に対応しつつ、国内の豪族たちを再編して中央集権国家の形成を急ピッチで進めていた時代であった。このような政治改革の一環として、王権の正統性を対内外に示すために、国家や諸氏族の文字による歴史叙述が必要とされたのである。
『国記』の構成と歴史的意義
同時に編纂されたとされる『天皇記』が大王(天皇)の系譜に特化した書物であったと推測されるのに対し、『国記』は国土の成立や各地の伝承、政治的な出来事など、より広い意味での「国家」の歴史が綴られていたと考えられている。また、諸豪族の系譜や職掌をまとめた書物も並行して作られたことから、当時の大和政権が各氏族の出自や地位を整理・公認することで、身分秩序(氏姓制度)を再編・強化しようとした意図が読み取れる。
これらは、のちの天武天皇期以降に本格化する『古事記』や『日本書紀』などの国家史書編纂(記紀編纂)の先駆をなすものであり、日本における初期の歴史叙述のあり方を示す極めて重要なステップであった。
乙巳の変における焼失と散逸
皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子や中臣鎌足らによるクーデター(乙巳の変)が勃発し、蘇我入鹿が暗殺された。これを受けて、甘樫丘の邸宅にいた父の蘇我蝦夷は、軍勢に包囲される中で邸宅に火を放ち自害した。この際、蘇我氏の元に保管されていた『天皇記』や『国記』などの貴重な史書も一緒に焼却された。
しかし、『日本書紀』によれば、書記官であった船恵尺(ふねのえさか)が燃え盛る火中から急ぎ『国記』を救い出し、のちに中大兄皇子へ献上したという。こうして『国記』の一部は辛うじて守られたとされるが、残念ながらその後の政変や戦乱などの混乱によって散逸したとみられ、現代にその内容を直接伝える写本などは一切残されていない。