天皇記 (てんのうき)
【概説】
飛鳥時代の推古天皇の時代に、聖徳太子と蘇我馬子によって編纂されたとされる歴史書。天皇の系譜や事績を記したものであるが、645年の乙巳の変に際して焼失し、現在は伝存していない。
推古朝における編纂の背景
『天皇記』は、『日本書紀』の推古天皇28年(620年)条に、聖徳太子(厩戸王)と大臣の蘇我馬子が共同で編纂したと記録されている史料である。この時期の倭国(日本)は、隋(中国)の南北朝統一という東アジアの国際情勢の激変に直面しており、対外的に独立した国家としての位置づけを示す必要に迫られていた。また、国内においては部民制の再編や冠位十二階・十七条憲法の制定などを通じて、天皇(大王)を中心とした中央集権体制の確立が進められていた。このような中で、皇室の祖先や系統を体系的に整理し、王権の正当性を証明・強化する目的で『天皇記』の編纂が企図されたと考えられる。
『国記』および諸編纂物との関係
『日本書紀』によれば、620年には『天皇記』だけでなく、『国記』や、諸氏族の系譜・伝承を記したとされる『臣連伴造国造百八十部并公民等本記(おみむらじとものみやつここくぞうひゃくはちじゅうべならびにおおみたからどものほんき)』なども同時に編纂されたという。『天皇記』が主に天皇(大王)の系譜や宮廷の歴史に焦点を当てたものであるのに対し、『国記』は国土の由来や支配領域の歴史、あるいは地方豪族の動向を記したものと推測されている。これらの共同編纂は、皇室を頂点とし、そのもとに蘇我氏をはじめとする有力氏族が秩序づけられた国家体制の姿を、歴史書の形で体現しようとする試みであった。
乙巳の変における亡失とその歴史的影響
皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変が勃発した。入鹿の死後、その父である蘇我蝦夷は甘樫丘(あまかしのおか)の邸宅に火を放って自害した。この際、蘇我氏の邸宅に保管されていた『天皇記』や『国記』などの貴重な史料も炎上した。中大兄皇子側に属していた船史恵尺(ふねのふひとえさか)が、燃え盛る火の中からかろうじて『国記』を救い出し、中大兄皇子に献上したものの、『天皇記』は火を免れず灰燼に帰したとされる。なお、救出された『国記』もその後散逸し、現存していない。これら最古の歴史書が失われたことは、日本の古代史研究において計り知れない損失であり、後の『古事記』や『日本書紀』の編纂において、歴史の再解釈や都合の良い書き換えが行われる要因になったとも指摘されている。