高向玄理

重要度
★★

【参考リンク】
高向玄理(Wikipedia)

高向玄理 (たかむこのくろまろ)

生年不詳〜654年

【概説】
飛鳥時代の知識人・官僚。遣隋使の留学生として中国へ渡って最新の国家制度を学び、帰国後は大化の改新において「国博士(くにのはかせ)」として新政府の政策立案を主導した政治ブレーン。

中国での長期留学と律令国家の「生きた知識」の獲得

高向玄理は、渡来系氏族である高向氏の出身とされる。608年、小野妹子が率いる第2回遣隋使に随行し、留学僧の旻(みん)南淵請安(なぶちのしょうあん)らとともに中国の隋へ留学した。隋の滅亡と唐の建国という激動の政権交代期を現地で目撃し、新興の唐が中央集権的な律令国家体制を構築していく過程を直接学ぶこととなった。彼の留学生活は30年余りに及び、640年にようやく帰国を果たした。この長期間にわたる滞在によって得られた、唐の律令や均田制、租庸調制といった最新の国家制度に関する知識は、日本の国家改革にとって極めて貴重なものとなった。

大化の改新と「国博士」としての新政府指導

帰国後の高向玄理は、南淵請安らとともに、蘇我氏の専横に危機感を抱く中大兄皇子や中臣鎌足らに唐の進んだ国家体制を講義し、改革の思想的土台を作った。645年、乙巳の変によって蘇我入鹿が打倒され、孝徳天皇を中心とする新政府が誕生すると、玄理は僧旻とともに新設された官職である国博士(くにのはかせ)に任命された。国博士は新政府の政治・外交顧問であり、実質的な最高政策立案者であった。玄理は翌646年に発布された「大化の改新の詔」の起草に深く関わったとされ、公地公民制や地方行政制度(国郡制度の原型)、班田収授法などの律令制を模範とした新国家のグランドデザインを描く上で主導的な役割を果たした。

新政権の外交と唐での客死

玄理の役割は国内改革にとどまらず、外交分野でも発揮された。大化の改新後の緊迫する東アジア情勢に対応するため、新羅との国交調整や使節の派遣に奔走した。さらに654年、遣唐使の事実上の最高責任者である押使(おうし)として再び唐に渡った。唐の第3代皇帝・高宗に謁見するなど外交交渉に臨んだが、同年に唐の首都・長安において客死した。彼の死は、律令国家建設を急ぐ倭国(日本)にとって大きな痛手であったが、彼がもたらした知識と改革の精神は、のちの天武・持統天皇期における本格的な律令国家(大宝律令)の完成へと受け継がれていくこととなった。

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