中大兄皇子

重要度
★★★

中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ)

626〜671

【概説】
飛鳥時代の皇族であり、後に第38代天智天皇となる人物。中臣鎌足らとともに乙巳の変を主導して蘇我氏の専横を打倒し、その後の大化の改新において政治の実権を握った。東アジアの激動期において、天皇を中心とする強力な中央集権国家の基盤を築き上げた古代史屈指の重要人物である。

乙巳の変と大化の改新の主導

舒明天皇と皇極天皇の間に生まれた中大兄皇子は、当時強大な権力を誇っていた蘇我蝦夷・入鹿父子の専横に強い危機感を抱いていた。645年、中臣鎌足(のちの藤原鎌足)らと結託して飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我本宗家を滅亡に追い込んだ(乙巳の変)。このクーデターの成功により、皇室への権力集中を図る道が開かれた。

その後、母である皇極天皇の譲位を受けて叔父の軽皇子が孝徳天皇として即位すると、中大兄皇子は皇太子として政治の実権を掌握した。都を難波長柄豊碕宮に移し、「改新の詔」を発布して公地公民制や新たな税制・行政区画の導入を打ち出すなど、唐の律令制に倣った中央集権的な国家体制の構築を目指した(大化の改新)。この改革は一朝一夕に実現したものではなかったが、日本が古代国家としての骨格を形成する決定的な出発点となった。

外交危機と白村江の戦い

内政の改革を進める一方で、当時の東アジア情勢は唐の台頭により極めて緊迫していた。朝鮮半島では唐と新羅の同盟が強大化し、660年に日本と長年の友好関係にあった百済が滅亡する。百済の遺臣からの救援要請を受けた中大兄皇子は、母・斉明天皇(皇極天皇が重祚)とともに大軍を率いて筑紫に出兵した。斉明天皇の急死後も称制(天皇に即位せずに政務を執ること)を敷いて出兵を強行したが、663年の白村江の戦いにおいて唐・新羅の連合軍に壊滅的な敗北を喫した。

この敗戦により日本は朝鮮半島での足場を完全に失い、逆に唐・新羅からの本土侵攻という未曾有の国防危機に直面することとなった。中大兄皇子は、対馬や筑紫に防人や烽(とぶひ)を置き、大宰府の防衛のために水城や大野城などの古代山城を築くなど、急ピッチで国防体制の強化に奔走した。

天智天皇の即位と内政整備

国防上の観点から、667年に都を飛鳥から内陸部の近江大津宮へと遷した中大兄皇子は、翌668年にようやく第38代天智天皇として即位した。即位後は、強権的な手法を用いて国家体制のさらなる整備を推進した。

670年には日本初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成し、氏姓を確定させるとともに人民の把握と徴税基盤を確立させた。また、日本初の法典とされる近江令(おうみりょう)を制定したとも伝えられており、乙巳の変以来掲げてきた天皇中心の律令国家建設を具体化させていった。

歴史的意義と壬申の乱への伏線

天智天皇(中大兄皇子)の生涯は、東アジアの国際的な動乱に呼応して、日本が独立した中央集権国家へと脱皮していく過程そのものであった。しかし、彼が強引に推し進めた急進的な改革や白村江の敗戦に伴う多大な負担、そして伝統的な飛鳥から近江への遷都は、豪族や民衆の間に少なからぬ不満を生み出していた。

また晩年、同母弟であり長年政務を補佐してきた大海人皇子(のちの天武天皇)ではなく、自身の子である大友皇子に後継を託そうとしたことが、深刻な皇位継承問題を引き起こす。671年に天智天皇が崩御すると、翌672年にはこの対立が古代最大の内乱である壬申の乱へと発展することになる。彼の築いた中央集権化への路線は、皮肉にも彼に反旗を翻して勝利した弟の天武天皇に引き継がれ、完成へと導かれるのであった。

天智天皇と大化改新 (同成社古代史選書 2)

大化改新の実像を史料から徹底的に解明し、天智天皇の権力構造と時代背景を冷徹に浮き彫りにした歴史学の必読書。

古代天皇制と政治・儀礼

古代天皇の権力の本質を政治と儀礼の両面から読み解き、その統治システムの変遷と深化を鮮やかに描き出した一冊。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 板状の石を長方形の箱の形に組み合わせて棺とし、その中に死者を葬ったお墓を何というか?
Q. 蘇我蝦夷の子として絶大な権力を握り、山背大兄王を自害に追い込んだが、645年に飛鳥板蓋宮で暗殺された人物は誰か?
Q. 古墳時代に大陸や朝鮮半島から日本に渡って定住し、漢字や儒教、仏教のほか、様々な高度な手工業技術をもたらした人々を総称して何というか?