輸租田 (ゆそでん)
7世紀末〜
【概説】
律令制下において、収穫物から一定の租(田租)を国家に納める義務を負った田地。班田収授法によって人民に班給された口分田や、位田・功田などがこれに該当し、古代国家の重要な税源となった。
班田収授法と輸租田の構造
大化の改新から大宝律令の制定(701年)を経て確立された律令国家において、土地と人民を国家が直接支配する公地公民制が原則とされた。この原則に基づき実施されたのが班田収授法である。戸籍に基づいて6歳以上の男女に支給された口分田は輸租田の代表例であり、収穫の約3%(1段あたり2束2把)に相当する稲を税(田租)として納める義務があった。
輸租田から徴収された田租は、中央に送られる調や庸とは異なり、原則として各国の国庫(正倉)に貯蔵され、地方官庁である国衙の財政資金や、飢饉に備える義倉などに充てられた。したがって、輸租田の維持は地方統治の安定において極めて重要な意味を持っていた。
不輸租田との対比と荘園制への推移
輸租田に対比される概念として、田租の納付が免除された不輸租田がある。初期の律令制下では、天皇に直属する公田や、有力な神社に属する神田、大寺院に属する寺田など、その範囲は国家によって厳しく限定されていた。
しかし、8世紀半ばに墾田永年私財法(743年)が発布されると、貴族や大寺社による大規模な墾田開発が進行した。これらの開発領主たちは、様々な政治的特権を利用して自身の土地を「不輸の権(免税権)」を持つ不輸租田(荘園)へと転換させていった。この結果、国家が直接把握して課税できる輸租田(公領)は徐々に減少し、律令制的な班田収授の仕組みは破綻へと向かった。この輸租田の減少と不輸租田の拡大は、古代律令国家から中世の荘園公領制へと日本の社会構造が大きくシフトしていく契機となった。