称制 (しょうせい)
【概説】
天皇が崩御または譲位した際、次期王位継承者である皇太子や皇后などが、正式な即位儀礼を経ずに事実上の君主として政務を執る政治形態。王位継承制度が未確立であった飛鳥時代から奈良時代初期にかけて、政治的空白や混乱を避けるための過渡的な措置として行われた。
「称制」が選択された政治的背景と目的
古代の日本においては、現代のように「天皇が崩御すれば直ちに皇太子が即位する」という厳密な直系継承ルールが確立されていなかった。そのため、天皇の崩御はしばしば皇位継承をめぐる激しい群臣の対立や、皇子たちの武力衝突を誘発する契機となった。このような緊迫した政局において、有力な王位継承者が正式な即位(即位改元)を遅らせ、「称制」という形で実権を握ることは、政敵の動向を見極めつつ権力を集中させるための極めて現実的な政治手段であった。
また、外征や大規模な制度改革など、国家的な非常事態に対応するために即位式などの煩雑な宮廷儀礼を後回しにし、実質的な指揮権を確保するという実務的な意図も含まれていた。中国の王朝(前漢の呂后など)にも類例が見られるが、日本の古代国家形成期においては、独自の王権強化のプロセスとして機能した。
飛鳥時代における二大事例:中大兄皇子と鸕野讃良皇女
日本史上における称制の代表例として、飛鳥時代の中大兄皇子(のちの天智天皇)と鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ、のちの持統天皇)の二人が挙げられる。
中大兄皇子は、661年に母である斉明天皇が百済救援の軍を率いる途上の筑紫で崩御した際、即位せずに称制を開始した(素服称制)。当時は唐・新羅の連合軍との戦争(白村江の戦い)という未曾有の外交・軍事的危機に直面しており、形式的な即位よりも軍事指揮権の掌握と国内体制の整備が急務であったためとされる。彼は約7年間にわたり称制を続け、近江大津宮に遷都した翌年の668年にようやく天智天皇として即位した。
一方、天武天皇の皇后であった鸕野讃良皇女は、686年の天武天皇崩御後に称制を行った。本来の後継者であった息子の草壁皇子が若くして早世したため、実質的な最高権力者として政務を執り、持統天皇として正式に即位する690年までの間、藤原京の造営や飛鳥浄御原令の施行といった天武の遺志を継ぐ重要政策を強力に推進した。
律令国家の形成と「称制」の歴史的意義
「称制」という政治形態は、単なる臨時措置にとどまらず、日本の王権が「大王(おおきみ)」から「律令制的な天皇」へと脱皮する過程において重要な役割を果たした。中大兄皇子や鸕野讃良皇女による称制期間は、いずれも強力な中央集権化や官僚制の整備が進められた時期と重なっており、天皇への権力集中(天皇専制)を実質化するための地ならしの期間であったと言える。
その後、大宝律令の制定(701年)などによって皇位継承のルールや天皇の権威が法的に規定されるようになると、皇位の空白期間を設ける称制の必要性は低下し、次第に行われなくなっていった。このように、称制は日本古代の政治権力が血縁的集団から法的な律令国家へと移行する過渡期特有の、極めてダイナミックな政治制度であった。