薬師寺
【概説】
天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈願して発願し、藤原京に建立された寺院。平城京遷都に伴って現在地である西ノ京に移転され、南都七大寺の一つとして栄えた。白鳳文化の粋を集めた東塔や薬師三尊像など、飛鳥時代後期から奈良時代の卓越した仏教美術を現代に伝える重要な文化遺産である。
建立の背景と天武・持統朝の国家仏教
680年(天武天皇9年)、天武天皇が鵜野讃良皇女(のちの持統天皇)の病気平癒を祈願して建立を発願した。当初は飛鳥の浄御原宮の周辺に造営が始められたが、天武天皇は寺の完成を見ずに崩御し、持統天皇、文武天皇の代に引き継がれて藤原京にて堂宇が完成を見た。この時期は、壬申の乱を経て強力な中央集権国家(律令国家)の建設が進められていた時代であり、仏教を国家鎮護のイデオロギーとして位置づける「国家仏教」が強力に推進されていた。薬師寺の建立は、大官大寺(のちの大安寺)などとともに、天皇の権威と国家の安泰を視覚的に示威する一大国家プロジェクトであった。
平城京遷都と「本薬師寺」論争
710年(和銅3年)の平城京遷都に伴い、薬師寺も新都の右京八条西四坊(現在の奈良市西ノ京町)に移転された。藤原京にあった元の薬師寺は本薬師寺(もとやくしじ)と呼ばれてしばらく存続したが、平安時代以降に次第に衰退し、現在は土壇や礎石を残すのみとなっている。一方、平城京の薬師寺にある東塔や薬師三尊像が、藤原京からそのまま移築・移坐されたものか、あるいは平城京で新たに造営・鋳造されたものかを巡っては、明治時代以降、建築史や美術史、考古学の分野で「移建論」と「非移建論(平城造営論)」という激しい論争が展開された。現在では発掘調査などの成果から、少なくとも東塔などの建築物については平城京で新築されたとする非移建論が定説となっている。
白鳳文化を代表する建築と仏教美術
薬師寺の伽藍配置は、金堂の手前に東塔・西塔の2つの仏塔を並立させる薬師寺式伽藍配置と呼ばれ、日本における寺院建築の発展過程を示す重要な様式である。現在、平城京造営当時から唯一残る建造物である東塔(国宝)は、各層に裳階(もこし)と呼ばれるひさしを持つため三重塔でありながら六重に見え、その律動的で美しい姿は「凍れる音楽」とも評されてきた。
また、金堂に安置されている本尊の薬師三尊像(国宝)は、日本の金銅仏における最高傑作の一つとされている。豊満な肉体表現や流麗な衣文の造形には、初唐美術やインドのグプタ美術の影響が色濃く見られ、飛鳥時代後期(白鳳期)の白鳳文化を代表する仏像である。さらに、東院堂の聖観音菩薩立像や、麻布に描かれた独立の画像としては日本最古とされる吉祥天女画像なども、古代仏教美術の至宝として名高い。
歴史的意義と現代への継承
薬師寺は南都七大寺の一つとして奈良時代を通じて朝廷の厚い保護を受け、法相宗の大本山として日本の仏教教学の発展に大きく貢献した。平安時代以降は度重なる火災や戦国時代の兵火などにより、東塔や東院堂を除く多くの堂宇を失った。しかし、昭和時代後期から高田好胤管主による写経勧進などの尽力により、金堂、西塔、中門、大講堂などが次々と再建され、白鳳時代の壮麗な伽藍が現代に蘇った。1998年には「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産に登録され、日本古代国家の形成期における仏教文化の到達点を示す歴史的遺産として、今日でも極めて高い価値を有している。