山背(山城)

重要度
★★

山背(山城) (やましろ)

【概説】
古代の日本における令制国(五畿八道)の一つで、現在の京都府南部に位置する地域。大和国(奈良県)から見て「山の背後」にあることから古くは「山背」と表記されたが、延暦13年(794年)の平安京遷都を機に「山城」へと改称され、以後明治維新に至るまで日本の政治・文化の中心地として機能した。

渡来系氏族による開発と「山背」の地勢

飛鳥時代より前、この地域は奈良盆地(大和国)から見て奈良山の北方、すなわち「山の背後」に位置することから山背(または山代)と表記されていた。起伏に富んだ盆地であり、鴨川や桂川、宇治川などの豊かな水系に恵まれていた反面、度重なる水害に悩まされる未開の地でもあった。

この地の開発に大きく貢献したのが、秦氏をはじめとする渡来系氏族である。秦氏は葛野川(現在の桂川)に大堰(大井堰)を築いて治水と灌漑を行い、山背盆地を豊かな水田地帯へと変貌させた。さらに養蚕や機織り、醸造などの先進技術をもたらし、この地に強力な経済基盤を確立した。秦氏が氏寺として建立した広隆寺(太秦)などは、当時の山背における高度な文化水準を象徴している。この渡来系氏族による開発が、のちの長岡京や平安京の造営を可能にする物質的・技術的基盤となったのである。

飛鳥・奈良時代の政治的動乱と「山背」

飛鳥時代に入ると、山背は中央政治の表舞台と深く関わるようになる。聖徳太子(厩戸皇子)の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、その名の通り山背地方に強い地盤を持っていたとされている。皇位継承をめぐり、蘇我入鹿の軍勢によって山背大兄王と上宮王家(聖徳太子の一族)が斑鳩寺で滅ぼされた山背大兄王の変(643年)は、のちの乙巳の変(645年)を引き起こす直接的な契機となった。

奈良時代には、聖武天皇が平城京からの遷都を繰り返す中で、一時的に山背国相楽郡に恭仁京(くにきょう、740年〜744年)が置かれた。このように、大和国のすぐ北隣に位置する山背は、政変の避難先や新たな政治的拠点の候補地として、常に中央権力から注目される戦略的要衝であった。

平安京遷都と「山背」から「山城」への改称

奈良時代末期から平安時代初期にかけて、十代目の天皇である桓武天皇は、肥大化した仏教勢力の影響が強い平城京からの脱却を図った。まず延暦3年(784年)に山背国の乙訓郡へ長岡京を造営し、次いで延暦13年(794年)に葛野郡の地に平安京を創設して遷都を完了した。

この平安京遷都の際、桓武天皇は「この国は山河が襟を帯びて自然に関をなす険要の地であり、新京を『山城』と名付け、山背国を改め山城国とする」という詔を発した。これは、従来の「大和から見て山の後ろ」という従属的な意味を持つ「山背」から、都を護る「山を城壁とする頑強な国」という主体的・軍事的な意味を持つ山城への大転換であった。これ以降、山城国は「都のある国」として、日本の政治、経済、文化の頂点に君臨し続けることとなる。

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