山陽道
【概説】
古代の律令国家によって整備された、本州西部の瀬戸内海側(周防・長門・石見などを除く瀬戸内沿岸諸国)を通る行政区分および幹線道路。五畿七道の中で唯一、最重要路線である「大路(たいろ)」に指定され、都と九州の大宰府を結ぶ国家の基幹道路として機能した。
古代律令国家における唯一の「大路」と駅制
飛鳥時代から奈良時代にかけて律令国家が形成されると、都を中心に全国を結ぶ交通網「七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)」が整備された。この七道は単なる道路ではなく、行政区画の名称でもあった。各道路には重要度に応じて「大路」「中路」「小路」の格付けがなされたが、その中で山陽道だけが最高格の「大路」に指定された。
大路である山陽道には、約16キロメートル(30里)ごとに駅家(うまや)が置かれ、そこには他道よりも格段に多い20頭の駅馬(えきば)が常備された。これにより、中央からの緊急の使者(使符を持った官人)が駅馬を乗り継ぎ、迅速に西国へと情報や命令を伝達できる体制が整えられていた。
外交・軍事の枢軸と「遠の朝廷」大宰府への大動脈
山陽道が「大路」として最重視された最大の理由は、大陸外交の窓口であり、国防の要衝でもあった九州の大宰府(遠の朝廷)へと直接つながる唯一の陸路だったからである。当時の日本は、唐や新羅などの東アジア情勢に対応するため、大宰府との迅速な意思疎通が不可欠であった。また、朝鮮半島や中国大陸からの使節(遣唐使の帰国使や新羅使など)が上洛する際にもこの山陽道が使用され、国家の威信を示すための「公式ルート」としても美しく整備されていた。
さらに、地理的に瀬戸内海の水運と密接に並行していたことも特徴である。基本的には陸路として整備されながらも、瀬戸内海の穏やかな海路と役割を補完し合うことで、物資の輸送や防人の移動、軍事行動において極めて高い効率性を発揮した。
律令制崩壊後の変遷と「西国街道」への継承
平安時代中期以降、律令体制が弛緩・崩壊に向かうと、国家管理による駅制は衰退していった。しかし、山陽道自体のルートは交通の要衝として維持され続けた。中世の武士の時代においても、京都から鎌倉、さらには西国へと向かう軍勢の移動路として重要視された。
近世の江戸時代になると、幕府によって主要街道の再編が行われ、山陽道は「西国街道(さいごくかいどう)」とも呼ばれるようになり、五街道(東海道など)に準ずる重要な脇往還として、多くの大名の参勤交代や庶民、旅人の往来で再び大きな繁栄を見せることとなった。このように、古代に構築された交通インフラとしての山陽道は、時代を超えて日本の東西を結ぶ大動脈であり続けたのである。