山陽道

重要度
★★

山陽道

7世紀後半~

【概説】
古代の律令国家によって整備された、本州西部の瀬戸内海側(周防・長門・石見などを除く瀬戸内沿岸諸国)を通る行政区分および幹線道路。五畿七道の中で唯一、最重要路線である「大路(たいろ)」に指定され、都と九州の大宰府を結ぶ国家の基幹道路として機能した。

古代律令国家における唯一の「大路」と駅制

飛鳥時代から奈良時代にかけて律令国家が形成されると、都を中心に全国を結ぶ交通網「七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)」が整備された。この七道は単なる道路ではなく、行政区画の名称でもあった。各道路には重要度に応じて「大路」「中路」「小路」の格付けがなされたが、その中で山陽道だけが最高格の「大路」に指定された。

大路である山陽道には、約16キロメートル(30里)ごとに駅家(うまや)が置かれ、そこには他道よりも格段に多い20頭の駅馬(えきば)が常備された。これにより、中央からの緊急の使者(使符を持った官人)が駅馬を乗り継ぎ、迅速に西国へと情報や命令を伝達できる体制が整えられていた。

外交・軍事の枢軸と「遠の朝廷」大宰府への大動脈

山陽道が「大路」として最重視された最大の理由は、大陸外交の窓口であり、国防の要衝でもあった九州の大宰府(遠の朝廷)へと直接つながる唯一の陸路だったからである。当時の日本は、唐や新羅などの東アジア情勢に対応するため、大宰府との迅速な意思疎通が不可欠であった。また、朝鮮半島や中国大陸からの使節(遣唐使の帰国使や新羅使など)が上洛する際にもこの山陽道が使用され、国家の威信を示すための「公式ルート」としても美しく整備されていた。

さらに、地理的に瀬戸内海の水運と密接に並行していたことも特徴である。基本的には陸路として整備されながらも、瀬戸内海の穏やかな海路と役割を補完し合うことで、物資の輸送や防人の移動、軍事行動において極めて高い効率性を発揮した。

律令制崩壊後の変遷と「西国街道」への継承

平安時代中期以降、律令体制が弛緩・崩壊に向かうと、国家管理による駅制は衰退していった。しかし、山陽道自体のルートは交通の要衝として維持され続けた。中世の武士の時代においても、京都から鎌倉、さらには西国へと向かう軍勢の移動路として重要視された。

近世の江戸時代になると、幕府によって主要街道の再編が行われ、山陽道は「西国街道(さいごくかいどう)」とも呼ばれるようになり、五街道(東海道など)に準ずる重要な脇往還として、多くの大名の参勤交代や庶民、旅人の往来で再び大きな繁栄を見せることとなった。このように、古代に構築された交通インフラとしての山陽道は、時代を超えて日本の東西を結ぶ大動脈であり続けたのである。

15の街道からよむ日本史 (日経ビジネス人文庫)

街道が辿ってきた歴史の足跡を辿り、古今の日本社会の変容と生活の息吹を鮮やかに描き出す、日本史の新たな視座を提示する一冊。

道路の日本史 – 古代駅路から高速道路へ (中公新書 2321)

古代の官道から現代の高速道路まで、路の変遷を通じて日本社会の構造と発展のプロセスを解き明かす、道から見る壮大な歴史の書。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 中国の皇帝が周辺国の君主を王として認め、東アジアの国際秩序に組み込む外交体制を何というか?
Q. 渡来人によって製作技術が伝えられた、ろくろ成形と窖窯での還元焔焼成による灰色で硬い土器を何というか?
Q. 律令において定められた五刑(むち打つ刑から死刑まで)を、軽い順から5つすべて漢字1文字ずつで答えよ。