国衙 (こくが)
【概説】
律令制下において、地方行政区分である「国」に置かれた役所群。中央から派遣された国司が、管轄する国内の行政、司法、軍事、徴税などの実務を執り行う拠点として機能した。
国衙の構造と「国府」
国衙は、国司が儀式や重要な政務を執り行う中心的な施設である国庁(政庁)を中心に、実務を行う複数の「曹司(ぞうし)」、租税を保管する「正倉(しょうそう)」、国司の宿舎である「館(たち)」などの役所群から構成されていた。これらの国衙が置かれた都市的な地域全体を国府(こくふ)と呼び、地方における政治、経済、交通、文化の中心地として栄えた。現代でも日本各地に「国府(こう、こくぶ)」という地名が残るのは、かつてこの場所に国衙が存在した名残である。
平安時代の変質と在庁官人の台頭
10世紀に入り、律令体制に基づく人身支配と班田収授法が崩壊すると、国衙の機能は大きく変容した。朝廷は、国司の最上席である受領(ずりょう)に対して、一定額の税(官物・臨時雑役)の納入を請け負わせる統治方針へと転換した。これにより国衙は、受領による一国支配と徴税のための効率的な機関へと再編されることとなった。
この過程で、国衙の機構は「政所(まんどころ)」「公文所(くもんじょ)」「税所(さいしょ)」「田所(たどころ)」などの専門部署(国衙機構の分課)へと改められた。そして、実務を実際に担ったのは、現地の有力な開発領主(田堵)から起用された在庁官人(ざいちょうかんじん)であった。受領の多くは京都に留まって「目代(もくだい)」を派遣するようになったため(留守所)、実質的な国衙の運営はこれら在庁官人の手によって世襲・維持されるようになり、国衙は受領と在庁官人による国衙領(こくがりょう)支配の拠点としての性格を強めていった。
中世における国衙の衰退と守護領国制への移行
鎌倉時代に幕府が成立し、諸国に守護(しゅご)や地頭(じとう)が配置されると、国衙の権限は次第に侵食されていった。当初、守護の権限は大犯三箇条などの軍事・警察権に限定され、民政や徴税といった国政は依然として国衙(国司)が掌握していた。しかし、地頭による国衙領(公領)への進出や、守護による国内支配の拡大によって、国衙の財政基盤と行政権は弱体化していく。
室町時代に入ると、守護が国内の武士を組織化して一元的な領国支配を進める守護領国制(しゅごりょうこくせい)が形成された。これにより、国衙が持っていた行政・裁判・徴税などの諸権限は守護の拠点である「守護所」へと完全に吸収され、中世の展開とともに国衙はその実質的な機能を失い、消滅へと至った。