救世観音像 (くぜかんのんぞう)
【概説】
法隆寺東院伽藍の夢殿に本尊として安置されている、飛鳥時代の木造彫刻。聖徳太子の等身像と伝えられ、長年にわたり「秘仏」として厳重に封印されてきた。明治時代にアーネスト・フェノロサらによって約1200年ぶりに開扉され、その驚異的な保存状態と美術的価値が世界に知られることとなった。
聖徳太子信仰の象徴と「等身」の伝承
救世観音像(正式名称:法隆寺東院本尊菩薩立像)は、法隆寺の東側に位置する東院伽藍の中心、八角円堂の夢殿に安置されている。この地は、かつて聖徳太子(厩戸王)が造営した斑鳩宮の跡地である。太子が亡くなった後、その遺徳を偲び、天平11年(739年)に僧・行信らによって東院が建立され、その本尊としてこの像が祀られた。
古くからこの像は「太子の等身像」と信じられてきた。これは、単に身長が太子と同じであるという意味にとどまらず、太子そのものが人々を救済する救世観音の化身(現身)であるという聖徳太子信仰(太子信仰)の強固な結びつきを示している。太子を神格化する信仰は平安時代以降に急速に広まり、夢殿と救世観音像はその信仰の聖地として人々の崇敬を集めることとなった。
飛鳥彫刻の最高峰としての美術的特質
美術史の観点から見ると、救世観音像は飛鳥時代(7世紀前半)を代表する優れた木造彫刻である。クスノキの一木造(いちぼくづくり)で造られており、表面には漆を塗り重ねた上に金箔を貼る漆箔(しっぱく)が施されている。長年秘仏であったため、この金箔が剥落せずに極めて美しい状態で残されている点が特筆される。
その造形は、中国の南北朝時代(北魏様式)の影響を色濃く反映している。杏仁(きょうにん)の形をした鋭い目、アルカイック・スマイル(古拙の微笑)を浮かべる仰月形の唇、そして体前で宝珠を持つ静的なポーズが特徴である。衣服の裾が左右に鰭(ひれ)のように鋭く広がる対称的なデザインは、同時期の法隆寺金堂本尊である釈迦三尊像(鞍作鳥作)とも共通しており、飛鳥時代における仏教受容初期のダイナミックな造形美を今に伝えている。
「秘仏」の封印とフェノロサによる近代の発見
救世観音像が今日まで当時の姿をとどめ得た最大の理由は、この像が数世紀にわたり完全な秘仏として、何重もの白布に包まれたまま厨子(ずし)の中に封印されていたからである。法隆寺の僧侶たちの間では、「厨子を開ければ神罰が下り、大地震が起きて国が滅びる」と信じられており、何人もその姿を見ることは許されなかった。
この封印を解いたのが、明治17年(1884年)、明治政府の文化財調査団として法隆寺を訪れた米国人美術史家アーネスト・フェノロサと、彼の教え子であった岡倉天心(覚三)である。彼らは頑なに拒む寺僧たちを説得し、ついに厨子を開扉した。包まれていた長い白布を解いたとき、フェノロサは「東洋のモナ・リザ」とも評される、光り輝く黄金の観音像と対面することとなった。この近代の「発見」は、日本の美術界に計り知れない衝撃を与え、のちの国宝保存法の制定や、日本の伝統美術の見直しを大きく促すきっかけとなったのである。