百済

重要度
★★★

百済 (くだら)

4世紀前半〜660年

【概説】
朝鮮半島南西部の馬韓の地を統一して成立した国家。北方の高句麗や東方の新羅に対抗するため倭国(日本)と強固な同盟関係を結んだ。仏教や漢字などの大陸文化を日本にもたらし、古代日本の国家形成と文化発展に多大な影響を与えた。

馬韓の統一と国家の形成

百済は、朝鮮半島南西部に存在していた小国連合である馬韓の諸国を統一する形で、4世紀前半から中葉にかけて古代国家としての体裁を整えた。伝承では紀元前18年の建国とされるが、歴史的に実態が確認されるのは4世紀中頃の近肖古王(きんしょうこおう)の時代からである。この時期の朝鮮半島は、北部に強大な高句麗、南東部に新羅、南部に加耶(任那)諸国が並立する複雑な国際情勢の中にあり、百済はこれらの勢力と激しい抗争を繰り広げながら領土を拡大していった。

倭国(ヤマト政権)との同盟と七支刀

百済にとって最大の脅威は、4世紀後半から5世紀にかけて南下政策を推し進めた北方の高句麗であった。特に高句麗の広開土王(好太王)の時代には激しい圧迫を受け、国家存亡の危機に立たされた。この高句麗の脅威に対抗するため、百済は海を隔てた倭国(ヤマト政権)に接近し、軍事的な同盟関係を構築した。

この百済と倭国の親密な関係を象徴する遺物が、奈良県の石上神宮に伝世する七支刀(しちしとう)である。銘文には、百済王が倭王のためにこの特殊な形をした刀を造り贈ったことが記されており、倭国の軍事力を頼りとした百済の切実な国際戦略を読み取ることができる。倭国もまた、百済との同盟を通じて朝鮮半島南部の鉄資源や、大陸の先進技術を獲得するという大きな政治的・経済的メリットを持っていた。

大陸文化の伝播と渡来人の活躍

百済は中国大陸の南朝と結んで先進的な文化を積極的に取り入れており、倭国にとって大陸文化を吸収するための最大の窓口となった。百済から倭国へは多くの渡来人が渡り、ヤマト政権の政治構造や文化の発展に不可欠な役割を果たした。

4世紀から5世紀にかけては、阿直岐(あちき)や王仁(わに)らが『論語』や『千字文』をもたらし、本格的な漢字・儒教文化が伝来した。さらに6世紀には、五経博士や暦博士、医博士などが交代で倭国に派遣され、学術や実用技術の導入が進んだ。そして、538年(または552年)には、百済の聖明王(せいめいおう)から欽明天皇へ仏像や経典が献上され、仏教の公伝が行われた。これらの百済を通じた文化の流入は、後の飛鳥文化の開花や、日本の律令国家形成の決定的な基盤となった。

白村江の戦いと百済の滅亡

7世紀に入ると東アジアの国際情勢は大きく変容し、中国大陸を統一したと新羅が強固に結びついた。660年、唐と新羅の連合軍(唐羅連合軍)の侵攻を受けた百済は、都の泗沘(しひ)を落とされ、ついに滅亡した。

しかし、百済の遺臣たちは国家復興を目指して蜂起し、同盟国であった倭国に救援を要請した。これを受けた中大兄皇子(後の天智天皇)は大軍を朝鮮半島に派遣したが、663年の白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)において唐羅連合軍に大敗を喫し、百済の復興は完全に絶たれた。百済滅亡後、多くの百済王族や貴族、知識人が日本へ亡命した。彼らは水城や古代山城の築造といった日本の国防体制の強化や、大宝律令に結実する法制整備において、その高度な知識と実務能力を大いに発揮することとなった。

シリーズ 地域の古代日本 東アジアと日本 (角川選書)

古代史の視点を列島から東アジアへと広げ、周辺諸国との複雑な外交関係と国家形成の過程を解き明かす一冊。

加耶/任那―古代朝鮮に倭の拠点はあったか (中公新書 2828)

長年の論争である任那問題を歴史学と考古学の両面から再検討し、当時の日韓交流の実態を浮き彫りにする書。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 弥生時代、水田のための土地や水、蓄積された富などをめぐって集落間で頻繁に起こるようになったのは何か?
Q. 完新世の温暖化に伴い、土器や弓矢が発明され、人々が竪穴住居に定住して狩猟・採集・漁労を行った日本の時代区分は何か?
Q. 608年に遣隋使に同行して留学し、帰国後は大化の改新において旻(みん)とともに国博士に任命された留学生は誰か?