群集墳

重要度
★★★

群集墳

5世紀末〜7世紀

【概説】
古墳時代後期から終末期にかけて、山麓や丘陵地帯などに密集して造営された小規模な古墳の群れ。内部主体として横穴式石室を備えるものが多く、農業生産力の向上を背景に台頭した有力な農民層(家族・同族の長)の墓である。

群集墳の出現と時代背景

5世紀末から6世紀にかけての古墳時代後期は、日本列島の社会が大きく変容した時期である。それまで各地の首長層によって築造されていた巨大な前方後円墳が徐々に規模を縮小させる一方で、山すそや丘陵地帯に直径10メートルから20メートル程度の小規模な円墳や方墳が密集して造られるようになった。これが群集墳である。この急増の背景には、鉄製農具の普及や灌漑技術の進歩による農業生産力の飛躍的な向上があった。これにより、従来の巨大な共同体を束ねていた首長層の下に位置する、村落内の有力な家族や同族の長(有力農民層)が独自の経済力を蓄え、自らの権威を示すために小古墳を築造できるようになったのである。群集墳の爆発的な増加は、社会の基層における階層分化と、個別の家族単位が社会的な実態を持ち始めたことを如実に物語っている。

構造と特徴:横穴式石室の普及と家族墓

群集墳を構成する小古墳の最大の特徴は、その内部主体(埋葬施設)として横穴式石室が広く採用されたことである。横穴式石室は朝鮮半島から伝わった技術であり、通路である羨道(せんどう)と遺体を安置する玄室(げんしつ)から構成される。従来の竪穴式石室が一度埋葬すると密閉されてしまうのに対し、横穴式石室は羨道の入り口を開閉することで、同じ石室内に複数の遺体を順次葬る追葬が可能であった。この機能は、群集墳が単なる個人の墓ではなく、血縁関係にある一族の家族墓として代々利用されたことを示している。また、平野部に近い山麓や丘陵の斜面が選ばれたのは、土地の有効活用に加えて、横穴式石室を築きやすい地形的条件が合致したためと考えられている。さらに、台地や丘陵の崖面に横穴を掘り込んで墓とする横穴(横穴墓)も、群集墳の一形態として全国各地で盛んに造営された。

副葬品の変化と新たな死生観

群集墳の副葬品は、古墳時代前期から中期に見られた呪術的・司祭的な品(銅鏡や腕輪類など)から大きく性格を変えている。代表的な副葬品は、朝鮮半島から伝わった硬質の陶質土器である須恵器や、日常的に使用される鉄製農具、鉄製武器、そして馬具や金銅製の耳環などの装身具である。特に須恵器は、死者への供え物(食物や酒など)を盛るための器として大量に副葬された。こうした実用的な品々が共に葬られたことは、死後の世界でも現世と同じような生活が続くとする新たな死生観が定着したことを示唆している。同時に、これらの副葬品が渡来人を通じてもたらされた最新の技術や文化と深く結びついている点は、古墳時代後期の社会が東アジアの動乱の中で急速に国際化し、新しい技術を貪欲に取り入れていたことを示している。

歴史的意義と代表的遺跡

群集墳は全国各地に数万基以上が造営されたと推測されており、和歌山県の岩橋千塚古墳群(いわせせんづかこふんぐん)や、横穴墓の代表例である埼玉県の吉見百穴(よしみひゃくあな)などが著名である。これらの遺跡は、単なる墓地の跡にとどまらず、ヤマト政権による国家形成の過程を解き明かす上で極めて重要な史料である。群集墳を築いた有力農民層の台頭は、ヤマト政権が彼らを直接的に把握し、屯倉の設置や部民制といった新たな支配体制に組み込んでいく基盤となった。そして7世紀に入り、仏教の普及や大化の改新(646年)に伴う薄葬令(はくそうれい)が出されると、群集墳の築造は急速に終息していく。したがって群集墳は、古代日本が首長連合から律令制に基づく中央集権国家へと脱皮していく過渡期の社会構造を、最も雄弁に語る歴史的指標であると言える。

古墳時代の歴史 (講談社現代新書 2792)

埋葬施設や副葬品の変遷から読み解く、古墳時代社会のダイナミズムと古代国家形成の過程を辿る貴重な一冊。

群集墳と終末期古墳の研究

地域社会の様相を色濃く反映する群集墳と終末期古墳の分析を通じ、古墳時代の終焉と変容の真実に迫る書。

日本史一問一答(ランダム)

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A.
Q. 縄文時代の獲得経済のうち、骨角器の釣り針や銛、網などを用いて魚介類を捕る活動を何というか?
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