大伴金村 (おおとものかなむら)
【概説】
古墳時代後期にヤマト政権の最高官職である大連として権勢を振るった豪族。武烈天皇崩御後の皇位継承危機において継体天皇を擁立し、政権の中枢を担った。しかし、朝鮮半島における任那四県の割譲をめぐる外交政策の失敗を問われ、のちに失脚した。
平群氏の排斥と継体天皇の擁立
大伴氏は、物部氏とともに軍事的な役割を担ってヤマト政権を支えた有力な伴造(とものみやつこ)出身の豪族である。大伴金村が歴史の表舞台に登場するのは5世紀末、顕宗・仁賢・武烈天皇の時代である。当時、政権内で急速に台頭していた有力豪族の平群真鳥(へぐりのまとり)とその子である鮪(しび)を軍事力によって滅ぼし、大伴氏主導の体制を築き上げた。
506年に武烈天皇が後嗣を定めずに崩御すると、ヤマト政権は深刻な皇位継承危機に直面した。金村は物部麁鹿火(もののべのあらかい)らと諮り、応神天皇の5世の孫とされる越前(または近江)の男大迹王(おおどのおおきみ)を招請し、継体天皇として擁立した。この功績により、金村は大連として政権の最高権力者の地位を確固たるものにした。
任那四県割譲と対外外交の転換
大伴金村の執政期における最大の課題は、激動する朝鮮半島情勢への対応であった。当時、朝鮮半島南部では新羅や高句麗の圧迫を受け、親ヤマト政権的であった加羅(任那)諸国の立場が危うくなっていた。512年、金村は百済からの要請に応じる形で、任那の西方にある任那四県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)を百済へ割譲することを承認した。
この政策は、百済との同盟関係を強化し、新羅の膨張を抑え込むための現実的な外交手段であったとされる。しかし、国内の伝統的な豪族層からは「祖先が手に入れた土地を容易に割譲した」として強い反発を招くこととなった。また、この半島情勢の不安定化は、のちに九州で発生した筑紫君磐井の乱(527年)の遠因ともなった。
物部尾輿による弾劾と失脚
継体天皇の死後、朝廷内では皇位継承をめぐる混乱(いわゆる継体・欽明朝合体説などの王統の分裂期)が生じ、金村の影響力にも陰りが見え始めた。そして540年(欽明天皇元年)、新羅が任那へと侵攻し、ヤマト政権の半島権益がさらに脅かされる事態が発生した。
この難局に際し、政敵であった大連の物部尾輿(もののべのおこし)は、かつて金村が百済から賄賂を受け取って任那四県を割譲したことが現在の危機を招いたとして、金村の外交責任を激しく追及した。欽明天皇の信任を失った金村は失脚し、領地であった住吉(現在の大阪市住吉区周辺)の館に退き、政界から引退を余儀なくされた。金村の失脚によって大伴氏は急速に没落し、以後のヤマト政権は物部氏と、新興勢力である蘇我氏の二大豪族が主導権を争う時代へと移行していくこととなる。