アフガニスタン侵攻
【概説】
1979年(昭和54年)12月、ソビエト連邦が隣国アフガニスタンの親ソ政権を維持・統制するために行った大規模な軍事介入。この事件により1970年代の米ソの緊張緩和(デタント)は崩壊して「新冷戦」と呼ばれる激しい対立の時代へと突入し、日本国内においてもモスクワオリンピックのボイコットなど社会・外交に多大な影響を及ぼした。
デタントの崩壊と「新冷戦」の幕開け
1970年代、アメリカとソ連を中心とする東西両陣営は「デタント(緊張緩和)」と呼ばれる対話と協調の時代を構築していた。しかし、1978年にアフガニスタンでクーデターにより成立した社会主義政権(親ソ政権)が、急進的な改革に反発するイスラム教徒の武装勢力(ムジャヒディン)による激しい抵抗に直面し、国内が内戦状態に陥った。
ソ連は、自国の南の国境を接するアフガニスタンがイスラム原理主義勢力に制圧されることや、アメリカの影響下に落ちることを強く警戒した。1979年12月、ソ連軍は国境を越えて大規模な軍事介入を断行し、傀儡(かいらい)政権を樹立した。これに対し、アメリカのカーター大統領は強い非難声明を発表し、対ソ経済制裁を発動した。こうしてデタントは完全に崩壊し、世界は「新冷戦」と呼ばれる再び厳しい軍事的・政治的対立の時代へと引き戻されることとなった。
日本社会への衝撃とモスクワ五輪ボイコット
アフガニスタン侵攻は、遠く離れた日本の社会にも直接的な衝撃を与えた。その最も象徴的な出来事が、翌1980年(昭和55年)に開催が予定されていたモスクワオリンピックのボイコット問題である。
アメリカはソ連への抗議として西側諸国にモスクワ五輪のボイコットを強く呼びかけた。大平正芳内閣の下にあった日本政府は、日米同盟を重視する観点からこれに同調し、日本オリンピック委員会(JOC)に対して不参加を強く要請した。スポーツと政治の切り離しを求める世論や、メダルを嘱望されていた選手たちからの悲痛な叫びもあったが、最終的にJOCはボイコットを決定し、日本選手団の派遣は見送られた。この出来事は、冷戦下におけるスポーツと国際政治の残酷な関係を日本国民に強く印象づけた。
対ソ警戒感の高まりと日米同盟の再構築
また、ソ連の武力行使は、日本の外交および安全保障政策にも大きな転換を促した。1970年代にはソ連との経済協力なども模索されていたが、この侵攻を機に日本国内におけるソ連への警戒感(「北方からの脅威」)は一気に高まった。
大平内閣の跡を継いだ鈴木善幸内閣、そして中曽根康弘内閣へと至る1980年代前半、日本はアメリカのレーガン政権が掲げる「強いアメリカ」路線と歩調を合わせ、日米安全保障体制の強化と防衛力の増強へと大きく舵を切ることになる。アフガニスタン侵攻は、日本が西側陣営の一員としての役割を再認識し、東西冷戦の枠組みの中で自らの立ち位置をより鮮明にする決定的な契機となった事件と言える。