鸚鵡返文武二道 (おうむがえしぶんぶのにどう)
【概説】
江戸時代中期の1789年(寛政元年)に刊行された、恋川春町作・画による黄表紙。老中・松平定信が主導した寛政の改革における「文武奨励策」を鋭く風刺した作品。幕府の厳しい怒りを買い、寛政期における言論・出版統制の先駆けとなった弾圧事件の契機として知られる。
寛政の改革と「文武二道」への痛烈な皮肉
天明の飢饉や打ちこわしといった社会不安のなか、将軍・徳川家斉のもとで老中に就任した松平定信は、緊縮財政と風紀取締りを柱とする寛政の改革を断行した。その一環として、旗本や御家人に対して朱子学の修得と武芸への専念を義務づける「文武奨励策」を打ち出した。しかし、長らく続いた泰平の世に慣れきっていた武士たちにとって、この急進的な命令は当惑と混乱をもたらすものであった。
こうした世相を背景に、戯作者の恋川春町(駿河小島藩士・倉橋格)が執筆したのが本書である。タイトルの「鸚鵡返(おうむがえし)」とは、上からの命令を中身も理解せずただそのまま復唱するだけの滑稽な姿を指しており、定信の掲げた「文武二道」の触れ出しに盲従してにわかに右往左往する武士たちの様子を辛辣にパロディ化したものであった。
時事風刺の流行と幕府による弾圧
作中では、古典的な文学作品の登場人物らを借りつつ、急な文武の強制によって生活やアイデンティティを脅かされる人々の様子が、ユーモアと哀愁を交えて描かれた。しかし、これが改革を進める松平定信の執政を直接的に批判・揶揄するものと見なされ、幕府の逆鱗に触れることとなった。
幕府は恋川春町に対して出頭を命じた。春町は自らの執筆が所属する小島藩に累を及ぼすことを恐れ、病気を理由に出頭を拒絶した。その後、春町は藩から強制的に隠居させられ、同年のうちに急死した(自殺説もある)。この事件は、それまで田沼意次期のリベラルな空気の中で比較的自由な表現を楽しんでいた江戸の知識人や町人たちに、幕府の厳しい姿勢を植え付ける決定的な出来事となった。
黄表紙の衰退と寛政の出版統制
『鸚鵡返文武二道』の筆禍事件を契機として、幕府は1790年(寛政2年)に寛政の出版取締令(重役以下の名前署名義務化や、風俗を乱す作風の禁止など)を次々と発令し、思想や表現への統制を本格化させた。これにより、政治や社会を風刺する高度な文学ジャンルであった黄表紙は急速に牙を抜かれ、衰退の道を歩むこととなる。
翌年には同じく人気戯作者であった山東京伝が『仕懸文庫』などの洒落本で手鎖50日の処分を受けるなど、春町の事件は寛政期における一連の言論弾圧のプロローグとして、日本近世文学史および社会史において極めて重要な意味を持っている。