鈴木梅太郎
【概説】
明治から昭和期にかけて活躍した日本の農芸化学者。米ぬかから脚気(かっけ)に有効な成分を抽出し、「オリザニン(のちのビタミンB1)」と命名して世界のビタミン学の基礎を築いた。
農学と化学の融合による研究の土台
鈴木梅太郎は、帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)農芸化学科を卒業後、1901(明治34)年からヨーロッパへ留学した。スイスやドイツで学び、特にドイツではのちにノーベル化学賞を受賞するエミール・フィッシャーの下でタンパク質やアミノ酸の化学的研究に従事した。この留学において最先端の有機化学の手法を身につけたことが、帰国後の日本における栄養学および農芸化学の飛躍的な発展に不可欠な土台となったのである。
「国民病」脚気との闘いとオリザニンの発見
当時の日本では、白米を主食とする習慣が都市部や軍隊を中心に広まるにつれて脚気(かっけ)が深刻な社会問題となっていた。特に日清戦争や日露戦争において、陸軍では多数の兵士が脚気に罹患して死傷し、国家的な課題となっていた。しかし当時の医学界では、脚気の原因について「伝染病(細菌)説」と「栄養欠乏(白米偏食)説」が激しく対立しており、根本的な解決に至っていなかった。
帰国して東京帝国大学教授に就任した鈴木は、家畜の飼料研究の過程で、白米のみを与えた鶏や鳩が脚気様の症状を起こし、米ぬかや麦を与えると回復することに着目した。そして1910(明治43)年、米ぬかの中から脚気を予防・治癒する有効成分の抽出に成功し、翌年にこれを「オリザニン」と命名して発表した。これは、動物の生存にはタンパク質、炭水化物、脂肪、無機塩類のほかに、微量で作用する未知の栄養素が不可欠であることを世界で初めて実証した歴史的な発見であった。
世界的な評価の遅れと医学界の障壁
しかし、鈴木の偉大な発見が直ちに国際的な評価を得ることはなかった。鈴木の論文のドイツ語訳が海外の学術誌に掲載された際、「これが新しい栄養素である」という最も重要な主張が翻訳段階で漏れてしまったためである。その翌年の1911年、ポーランド出身の化学者カジミェシュ・フンクが同じく米ぬかから有効成分を抽出し、これを「生命(ヴィタ)に不可欠なアミン」という意味で「ビタミン」と命名した。結果として、国際的にはフンクの功績が広く認知され、「ビタミン」という名称が定着することとなった。
また、国内においても、当時の権威ある医学界はドイツ医学の強い影響下にあり、細菌学の観点から脚気を伝染病とする説が主流であった(森鷗外らが代表的)。そのため、農学者である鈴木が提唱した「未知の栄養素の欠乏」という概念は医学界からはすぐには受け入れられず、冷遇される時期が続いた。
理化学研究所での活躍と実学への貢献
医学界からの不当な評価にも屈することなく、鈴木は研究の手を緩めなかった。1917(大正6)年に理化学研究所(理研)が設立されると、鈴木は主任研究員として迎えられた。ここでは基礎研究にとどまらず、ビタミンAの分離や、米不足解消のために防腐剤を必要としない合成清酒(のちの「利久」など)の発明を行うなど、多岐にわたる応用研究と実学に大きな貢献を果たした。これらの事業化によって得られた特許収入は理研の財政を大いに潤し、大正・昭和期の日本の科学技術振興を強固に支えることになった。晩年の1943(昭和18)年には、生前の多大な功績により文化勲章を受章している。