酒(造り酒屋) (さけ(つくりざかや)
【概説】
鎌倉時代以降、農家の自家消費や副業としてではなく、商業用として専門に酒を醸造・販売した業者。貨幣経済の浸透や農業生産力の向上を背景に都市部を中心に台頭し、後の室町時代には幕府の重要な財源となるなど、中世経済において大きな役割を果たした。
造り酒屋誕生の背景と商品経済の進展
古代から平安時代にかけて、酒の醸造は朝廷の造酒司(みきのつかさ)や有力な寺社が担うか、あるいは農民が祭祀や自家消費のために造るのが一般的であった。しかし、鎌倉時代に入ると、二毛作の普及や鉄製農具の使用によって農業生産力が向上し、余剰の米が市場に出回るようになった。同時に、日宋貿易などによる宋銭の大量流入によって貨幣経済が浸透し、交通網の整備も進んだことで、商品としての酒に対する需要が都市部を中心に高まっていった。
こうした社会経済的な変化を背景に、従来の自家醸造の枠を超え、利潤の獲得を目的として専門的かつ大規模に酒を醸造し、販売を行う造り酒屋が誕生した。彼らは単なる酒造りの職人に留まらず、原材料である米の調達から商品の流通・販売までを一手に担う新興の商工業者であった。
都市における発展と寺社勢力との結びつき
鎌倉時代における造り酒屋は、京都や奈良、鎌倉といった人口が集中する都市部で著しい発展を遂げた。とくに当時の最大の消費地であった京都では、有力な寺院(延暦寺など)や公家の保護下に入り、「座」を結成することで営業の独占権や通行税(関銭)の免除といった特権を得る業者が現れた。
また、奈良では興福寺などの大寺院の庇護のもとで「僧坊酒(そうぼうしゅ)」と呼ばれる高品質な酒が造られていた。のちに造り酒屋たちはこの高度な醸造技術を吸収し、大量生産のノウハウを確立していくことになる。さらに、造り酒屋はその潤沢な資金力を背景に、高利貸しである土倉(どそう)を兼ねる者も多く(土倉・酒屋)、中世都市の経済活動を牽引する巨大な金融資本へと成長していった。
室町幕府の重要財源「酒屋役」
室町時代に入ると、造り酒屋の経済的実力はさらに強大化した。これに目を付けたのが室町幕府である。幕府は、京都の造り酒屋や土倉を保護する見返りとして、彼らから酒屋役(さかややく)や土倉役と呼ばれる営業税を定期的に徴収するようになった。
室町幕府は直轄領(御料所)が少なく、農村からの年貢収入だけでは財政基盤が脆弱であった。そのため、富が集積する京都の造り酒屋からの税収は、幕府の屋台骨を支える極めて重要な財源となった。幕府は徴税を円滑に行うため、有力な酒屋を「納銭方(のうせんかた)」に任命し、税の取り立てや管理を委託する体制を構築するなど、造り酒屋は幕府の権力維持に不可欠な存在となっていった。
民衆の反発と土一揆の標的
しかし、造り酒屋が土倉を兼ね、幕府と結びついて莫大な富を蓄積したことは、貧窮する農民や一般民衆の強い反発を招くことにもなった。とくに凶作や飢饉の際、食料である米を大量に消費して酒を造り、高金利の貸付で利益を上げる彼らの姿は、民衆の怒りの矛先となりやすかった。
その結果、正長の土一揆(1428年)や嘉吉の徳政一揆(1441年)などに代表される土一揆においては、酒屋や土倉の店舗・蔵が真っ先に襲撃された。一揆勢は借金証文の破棄(私徳政)や質物の強奪を行い、幕府に対して徳政令の発布を強硬に迫った。このように、酒(造り酒屋)の歴史的展開は、中世における目覚ましい経済成長の象徴であると同時に、貧富の差という社会矛盾が集中的に現れた場でもあったのである。