軍役 (ぐんえき)
【概説】
江戸時代に幕府が大名に対して、その領有する土地の石高に応じて義務づけた軍備・兵員の動員負担。将軍(主君)から領地を保障された大名(家臣)が果たすべき、主従関係の根幹をなす最大の「奉公」である。
軍役規定の確立と石高制
江戸時代の軍役は、豊臣政権下で進められた兵農分離と太閤検地によって成立した石高制を基礎としている。各大名は、幕府から公認された自領の表高(公式な石高)に見合うだけの軍事力を平時から維持・組織することが義務づけられた。これを具体的に定めたのが軍役規定(軍役令)である。
幕府は、将軍の代替わりや軍事緊張の度合いに応じて軍役規定を改定した。代表的なものとして、寛永10(1633)年の規定や、慶安2(1649)年の規定が挙げられる。これらの規定では、石高100石あたりに動員すべき騎馬武者、足軽、各種人足(物持など)の数や、携行すべき武具(弓、鉄砲、槍、旗など)の数量が細かく指定されていた。大名たちは、この基準を満たす家臣団を平時から抱えておかねばならなかった。
平時における軍役の変質と役割
徳川幕府の支配が安定し、大規模な戦乱が途絶えた「元和偃武(げんなえんぶ)」以降、軍役の性質は実戦から平時の警察・警備任務へと変質していった。具体的には、江戸城の門番、駿府城や大坂城の定番、日光社参における将軍の警護、さらには異国船の来航に備えた長崎・江戸湾の沿岸警備などが、各大名に「軍役」の一環として割り振られた。
また、大名が義務づけられた参勤交代の際の絢爛豪華な大名行列も、この軍役規定に基づき動員された軍隊の移動という側面を持っていた。他国(他藩)に対して自藩の軍事力を誇示すると同時に、将軍への忠誠を儀礼的に示すパフォーマンスでもあったのである。
軍役の負担と幕末の軍制改革
太平の世が続くなかで軍役を維持することは、各藩にとって極めて重い財政負担となった。実戦の機会がないにもかかわらず、格式や規定を維持するために多額の経費を費やす必要があり、これが藩財政を圧迫する一因となった。
幕末期に欧米列強の軍事的脅威(開国要求)が現実化すると、従来の槍や弓、火縄銃を主体とする中世・近世的な軍役規定の形骸化が露呈した。実戦に耐えうる近代的軍隊への脱皮を迫られた幕府は、文久2(1862)年の文久改革において軍役規定を大幅に改定。従来の石高比例による兵員動員を廃し、代わりに金納による軍資金の徴収(軍役代納金)や、西洋式軍制に基づいた新たな防衛体制への移行を図ることとなった。